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総本社伏見稲荷大社
所在地(〒612-0882)京都府京都市伏見区深草藪之内町68
神使
系列社稲荷神社、稲荷大明神、稲荷社、稲生神社、伊奈利神社 他
同系神社豊受神社、保食神社
備考稲荷神社は、全国で一番数の多い神社とされ、その数、3万社、4万社とも伝えられる。
ただし、豊川稲荷(曹洞宗)、最上稲荷(日蓮宗)は、神社ではなく仏教系寺院に属す。
稲荷神社基本神
[古事記名]宇迦之御魂神(ウカノミタマ)
[日本書記名]倉稲魂尊(ウカノミタマ)
[別名]御饌津神(ミケツ)
[通名]稲荷神(イナリ)

ウカノミタマは、素戔嗚尊(スサノオ)と神大市比売神(カムオオイチヒメ)との間に生まれた神で、その兄神には、お正月を迎えるにあたって祀られる大年神(オオトシ)がいる。名前にある「ウカ」は、穀物食物を表すことから、穀物の神とされ、いわゆる農耕神のひとつとされている。そのことから、ウカノミタマは基本、五穀豊穣を司る神とされ、その恵み豊かなイメージから商売の神として、商売繁盛を司る神さまとしても敬われている。因に、ウカノミタマの性別は不明だが、稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社では、ウカノミタマを女神としている。
稲荷神社あるある神 稲荷神社でよくみる神々
稲荷神社では、原則、ウカノミタマを代表とする農耕の神が祀られているが、ウカノミタマ以外の農耕の神が祀られるケースも多数存在する。

[農耕神1]保食神(ウケモチ)

保食神(ウケモチ)は、「古事記」には登場せず、「日本書紀」にのみ登場する神となる。その「日本書紀」では、月夜見尊(ツクヨミ)が、天照大神(アマテラス)の命で、葦原中国の保食神を見に行った時、ウケモチが、口の中から食材を吐き出し(海を向くと魚を、山を向くと獣のを吐き出したという)、ツクヨミをもてなそうとしたところ、ツクヨミが、それを「汚らわしい」として、保食神を斬り殺してしまったというエピソードがある(これが元にアマテラスと喧嘩となり、昼と夜、太陽と月の関係が生まれたとされる)。そして、この時、ウケモチの死体から食物が誕生したと言われており(頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目からら稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆)、これが、食物の連鎖を表してるともされ、ウカノミタマと同じく、農耕の神として知られる。因に、ウケモチは、一般に女神とされる。

[農耕神2]大食津比売神(オオゲツヒメ)
※[別記]大宜都姫神

オオゲツヒメは、「古事記」において、五穀や養蚕を司る神として登場する。それは、ウケモチのエピソードとかなり酷似しており、素戔嗚尊(スサノオ)が出雲の国に向かう道中に、このオオゲツヒメと出会うエピソードがある。そこでは、腹を空かせたスサノオが、オオゲツヒメに食物を求め、オオゲツヒメは、様々な食物でもてなすのだが、それを不審に思ったスサノオが、こっそりその用意する様を除き見ると、オオゲツヒメは、自身の鼻、口、尻から食材を取り出していたことを知り、スサノオは、怒り狂って、オオゲツヒメを斬り殺してしまう。すると、その頭から蚕、目から稲、耳から粟、鼻から小豆、陰部から麦、尻から大豆が生まれたとされ、これを高天原から見ていた神産巣日神(カミムスヒ)が、採取して地上に授けたという話があり、これが五穀の起源と伝えられている。

[農耕神3]豊受大神(トヨウケノオオカミ)
※[古事記名]豊宇気毘売神(トヨウケビメ)
※[日本書紀名]豊受媛神(トヨウケビメ)
※[別名]大物忌神(オオモノイミ)

豊受大神は、「古事記」で、火之迦具土神(カグツチ)を生んで、病床で苦しむ伊弉冉尊(イザナミ)の尿から生まれた和久産巣日神(ワクムスビ)の御子神とされる。名の「ウケ」とは、食物を表し、ウケモチ・オオゲツヒメと同様、穀物の神とされる。そして、豊受大神宮では、このトヨウケノオオカミが、皇大神宮の外宮として、アマテラスの食事を司る神として祀られている。

このように、これら三柱の神々は、どれも同じような性質を持ち合わせており、稲荷神と習合化をはかることで、同一視されるようになったと言われている。そのため、稲荷神社では、基本、ウカノミタマを稲荷神としながらも、中には、この3柱の何れかの神を意味する場合もあり、多少の注意が必要となってくる。
稲荷神社のご利益
五穀豊穣稲荷神が食物の神を表すことから最も代表的なご利益が、この五穀豊穣と言える。また、境内に祀られている狐の神使像の中には、口元に鍵をくわえているものがあるが、その鍵は、食物庫の鍵とも言われ、農耕と非常に深い関係が伺える。

商売繁盛これは、稲荷神が蚕などの商業の神を司る点と、農民から商人に、信仰者が拡大するにつけ、その信仰が江戸にまで飛び火し、信仰した商人に、成功者が数多くみられたことから、認められるようになったご利益で、五穀豊穣と同様、豊かを意味するのが、この稲荷神社の最大の特徴と言える。

※ご利益に関しては、あくまで参考程度にお考え下さい。
稲荷神社拡大の歴史
稲荷神社は、国内で最も普及した神社と言ってよいが、その理由は相応に複数な条件が様々に入り組んでいる。神仏混合という点はもちろん稲荷神社を普及することに役立ってはいるが、稲荷神社の場合、八幡神社のように、習合化によって、仏教の力をプラスに変えただけではなく、「祟り」といった怖いイメージももたらされている点は非常に特徴的なものとなる。
(1)稲荷信仰始まりの謎
稲荷神社の原点は、次に続く、秦(はた)氏による京都の伏見稲荷大社に求められるが、全国の稲荷神社をみていくと、この伏見稲荷大社より古い歴史を持つ稲荷神社の存在が幾つか上げられることがこの稲荷信仰の難解さを際立たせている。中でも、「本朝最初の稲荷神社」の扁額を掲げる糸我稲荷神社(いとがいなりじんじゃ)は、一般に京都の伏見稲荷大社の創始が、和銅4年(711年)とするのに対し、こちら糸我稲荷神社は、その創始を白雉3年(652年)と60年近くも前に遡る。さらに、三大稲荷の一つにも数えられる笠間稲荷神社 (かさまいなりじんじゃ)は、白雉2年(651年)と、そこから更に1年古く、その始まりは多くの謎に包まれている。これは、ひとつの考え方として、稲荷信仰とは、元々、土着の農耕信仰における存在に始まり、後から稲荷神と習合を図ったか、または、既に、稲荷神=農耕神という図式が認められていてかのどちらかになると思われるが、いずれにせよ、その詳細は定かではない。
(2)稲荷神の降臨ー秦氏の信仰
稲荷信仰の発展に大きく寄与したと認められているのが、最初に稲荷神が降臨したとされる稲荷山周辺に勢力を構えていた豪族、秦(はた)氏とされる。秦氏は、渡来系商人の最大氏族であり、往古、餅に矢を放ったところ、その餅が白鳥となって稲荷山の頂きに飛翔することがあったという。すると、その山では、実り豊かな穀物が豊穣を迎え、これが「稲が成る」ことから「稲成」として、稲荷神信仰が始まったとしている(稲荷山の名もここから)。

ただし、この餅を射る行為が穀物に不敬を働く行為とみられることから、秦氏は一度、没落の憂き目をみたとも言われており、この豊穣の山の奇跡と自身の失墜から、稲荷神を深く崇敬するようになったと言われており、これが、現在の稲荷信仰の基盤とされる。そして、この時、建てられた神社が、現在、稲荷神社の総本社とされる伏見稲荷大社となる。因に、畑氏、畑野氏、波多氏などの姓をもつ者は、この秦家の流れにあり、同様に稲荷神を信仰している。
(3)農業人口の増加と農業神の価値
当然のことながら、稲荷神社は農耕の神さまを祀っている。このため、稲荷神社は農村部に多く祀られており、江戸時代では、全人口における8割以上が農民であったと言われていることからも、こうした稲荷神が農業と非常に深い関係にあったこともその理由のひとつと考えられる。
(4)農業信仰から商人信仰へ
稲荷信仰創成の立役者となった秦氏は、渡来の技術を持って台頭し、機織り業、養蚕業といった国内産業の発展に大きく寄与しており、それが、後の商人として、一部、全国に拡大していっている。これは、日本三大商人のひとつ、近江商人もその秦氏の末裔とも一部目されており、こうした稲荷神を信奉する商人の登場は、その後も、多数の成功者を生み落としたことからも、商売繁盛としての実例を数多く輩出し、それが一般庶民にも根付き、農業、商人という一般人における最も身近な神社として、広く、崇敬されるに至ったと考えられる。現在でも、百貨店や大手商社など有名な企業の多くは、独自に稲荷神社を祀る企業も多く、これも商売繁盛を祈念するこの流れを現代に継承するひとつの姿と言える。
(5)真言密教との習合ーお狐さまと怨霊
稲荷神社も神仏混淆を果たした神社のひとつと言える。そのポイントは大きく分けて二つあり、ひとつは、真言密教と習合したもので、京都の真言宗総本山、東寺(とうじ)の五重塔建立に際し、伏見の稲荷山(稲荷信仰の原点の地)から用材が切り出したとされたという。結果、稲荷神が東寺の守護神として迎えられたと言われている。この事に関しては、初代管長を務めた空海が、稲荷神と交渉したという旨まで伝えられている。

そして、ふたつが、稲荷神の使い、いわゆる神使(しんし)となる狐が、仏教の神と混淆していった点にある。狐を神使とする理由は諸説あるが、『平清盛が若かりし頃、狩りに出て、狐に的を絞ったところ、狐が突然美女に変化し、「我を救えば、願い事を叶えよう」と告げ、その神託に清盛公が従った』という逸話が残っており、この美女が荼枳尼天(だきにてん)を自負していることから、以後、清盛公は荼枳尼天を信仰したと伝えられる。

しかし、荼枳尼天は、本来、インドの悪神で、死者の心臓や肝を喰らう非常に怖いイメージであったことから、元々、格の高い霊獣と認められてきた狐が、荼枳尼天と混淆することによって、怖いイメージもつきまとうようになった。実際、狐を怒らせると取り憑かれるという噂が広まり、狐の祟りによる事件が続発したこともあった。そのため、その祟りを鎮めようと稲荷神社を建立する傾向もみられるようになっている。因に、墓場の狐火や狐が化けるといったイメージもこの荼枳尼天との習合からきている。
(6)邸内に祀られる稲荷神社
東京にいると小さな稲荷神社をよくみかける。それは、昔の言葉に、「江戸に多いモノに伊勢屋・稲荷に犬の糞」という表現もあり、それだけ都内には稲荷神社が多いことが伺える。そして、その代表的な理由のひとつに、江戸時代に参勤交代で、江戸に出仕させられた大名の屋敷内に祀られた稲荷神社の存在が上げられる。これは、遠方から遣わせられた大名が、遠い郷里の五穀や発展を願って、江戸の仮屋敷である邸内、特に、その鬼門の位置に、稲荷神社を祀ったことが流行っている。今では、その屋敷自体は残っていないが、稲荷神社だけが周辺の町民に譲り受けられ、守られているケースも少なくない。または、これは、豪商などもそうだが、稲荷神社には、個人の敷地に勧請された邸内社の側面も非常に強く、これも稲荷神社が浸透する一つの理由にもなっている。
このように、複数の要素が認められながらも、一番は、農業/商業という庶民に最も身近な存在と成り得たことが、この稲荷神社の信仰拡大に大きく寄与したと言える。
白雉2年
(651年)
笠間稲荷神社
(茨城県)
こちらも具体的な創建時期は不明としながらも、社伝では、その創建は、661年にのぼるとされ、『常陸国風土記』によると、7世紀ごろにはすでに当地で宇迦之御魂神への信仰が行われたと記されている。

白雉3年
(652年)
糸我稲荷神社
(和歌山県)
実は、伏見稲荷大社の創建よりも古い稲荷神社の存在が指摘されており、この和歌山県の糸我稲荷神社では、「長引く凶作を憂えた村人が、高山に登拝し、数日にわたって供物を捧げ、豊作を祈念→倉稲魂命が降臨し、御神託を下した。」とあり、境内にも、「本朝最初の稲荷神社」の石碑が残っている。

和銅年間
(708〜15年)
稲荷山
(京都府)
当時、稲荷山近辺で富を得ていた一族に、秦家がいた。その一人、秦伊呂具(いろこのはたのきみ)は、餅を的にして矢を放っていた。すると、その餅は、白鳥へと変化し、そのまま伊奈利(稲荷山)三ヶ峰の方角に飛翔し、その山の峰に、稲が成ったと言われ、稲荷の語源が生まれる。また、同じくして、勢力を誇った泰氏も、この事件以降、衰退の一途をはかっていた。

和銅4年
(711年)
伏見稲荷大社
(福岡県)
秦伊呂具は、衰退していく秦家は、自らの愚行が招いたとし、伊奈利(稲荷)三ヶ峰の平なところに稲荷神を祀ったとされ、これが伏見稲荷大社の始まりとされている。

和銅5年
(712年)
箭弓稲荷神社
(埼玉県)
当時、既に小さな祠として祀られたとされ、その詳細は謎だが、この年を既に創建の時期としている。

延暦13年
(794年)
平安京
(京都府)
この年、長岡京より平安京への遷都が行われるが、実は、この平安京への遷都には、秦氏の財務的支援があったとも言われている。これが事実であれば、平安京への遷都は、秦氏の政治的基盤を強め、暗躍する商人の立場と共に、稲荷神社拡大の起爆的要因になったと推察もできる。

延暦15年
(796年)
伏見稲荷大社
(福岡県)
京都の九条町に、真言宗の総本山、東寺が建立される。この時、五重塔の建立に、伏見の稲荷山から用材が切り出されたことから、稲荷神が東寺の守護神として、習合化を果たしていくことになる(空海が稲荷神と交渉したとも伝えられる)。

大同2年
(807年)
草戸稲荷神社
(広島県)
明王院を開基したとされる空海上人が同寺の鎮守として、祀ったことに始まるとされる。

弘仁2年
(811年)
館腰神社
(宮城県)
空海が、当地に弘誓寺を創建するにあたり、伏見稲荷より御分霊を勧請したとされる。

承和9年
(842年)
竹駒神社
(宮城県)
小野篁(おののたかむら)が陸奥国司として赴任した際、伏見稲荷を勧請して創建したとされる。

天慶3年
(940年)
烏森神社
(東京都)
平将門が乱を起こした時、藤原秀郷(俵藤太)が武蔵国のある稲荷神社に戦勝を祈願した結果、無事に乱を鎮めた御礼として創建したとされる。

天喜5年
(1057年)
志和稲荷神社
(岩手県)
源頼義が安倍頼時、貞任父子の追討(前九年の役)において、陣ヶ岡に布陣した際に、その戦勝を祈願し伏見稲荷よりご分霊を勧請したことに始まる。

平安時代
(1100年代)
蓮台野
(京都府)
平清盛の若い頃、狩りをしていた時に、一匹の狐に矢を向けて狙い定めていた。すると、その狐は、美女へと変化し、自らを、仏神「荼枳尼天(だきにてん)」と称し、自らを救う代わりに、願い事を叶えると清盛に神託を授けたという。

長禄元年
(1457年)
千代田稲荷神社
(東京都)
太田道灌公が江戸城(千代田城)を建築した際、城内に京都の伏見稲荷を勧請したという。

長禄元年
(1457年)
常磐稲荷神社
(東京都)
太田道灌が江戸城を築城の際、京都伏見稲荷大神の御分霊をいただき、常磐稲荷と名付け、江戸城の守護神として勧請したという。

長禄2年
(1458年)
柳森神社
(東京都)
太田道灌公が江戸城の鬼門除けとして、多くの柳をこの地に植え、京都の伏見稲荷を勧請したという。

明応5年
(1496年)
高橋稲荷神社
(熊本県)
隈本城の初代城主である鹿子木親員が支城として稲荷山山頂に上代城を築いた際、城内鎮守のため京都の伏見稲荷神社より御分霊を勧請したという。

明治17年
(1884年)
札幌伏見稲荷神社
(北海道)
初代野村茂翁元官幣大社となる札幌神社称宣が、京都伏見にある伏見稲荷大社のご分霊を勧請したという。

稲荷神信仰は、伏見稲荷大社における秦氏を起点に広まりを見せているのは事実であるが、その稲荷信仰における創始には、別の地にも見られることから、元々、地方神として、稲荷神信仰(穀物神信仰)があったのではないかと考えられる。それは、稲荷神と一口に言っても、複数の神の存在が見られる点、その代表とされるウカノミタマが、いわゆる記紀という神話の中では、名前を残すだけで、とりわけ大きな活躍を残していない点などから、地方神として存在した穀物信仰を中央に組み込むため、組織化された可能性も考えられる。

それが、秦氏の活躍とリンクして考えると、非常にスムーズにその繁栄の過程を追うことができる。これは、また、稲荷神社拡大の特徴のひとつに、総本社からの直接勧請が多いというのも同様で、八幡神社や日枝神社などは、ご分霊にご分霊をかさねて、徐々に、信仰の頒布が移動しているケースが多いが、稲荷神社は、その数が多いだけに、中央集権的に、直接勧請がかなり機能しているのは、それだけ、伏見稲荷と秦氏の拡散が実働的役割を果たしていたのではないかという推測ができるが、とにかく、稲荷信仰は全国に幅広く浸透しているのは、その最大の特徴でもある。因に、東京都内において、稲荷神社が多いのは、一部には、江戸城を築城した太田道灌 が、その鬼門除け、守護神として、相当数の稲荷神社を勧請したことも理由に挙げられる。