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総本社鹿島神宮
所在地(〒314-0031)茨城県鹿嶋市宮中2306-1
神使鹿
系列社鹿島神社、鹿島大神 他
同系神社春日神社
備考・鹿島神宮の系列社は、全国に600社以上あるとされる。
・延喜式神明帳で、神宮の呼称が許されているのは、伊勢・鹿島・香取のみとなる。
※延喜式神明帳とは、日本最古の神社格付け本のようなもの。
鹿島神社基本神
[古事記名]建御雷神(タケミカヅチ)
[日本書紀名]武甕槌神(タケミカヅチ)
[別名]建布都神(タケフツ)
豊布都神(トヨフツ)

タケミカヅチは、その名の通り、雷を司り、刀剣の神でもある。それは、古事記の登場でも刀剣の上に座した姿で降り立っており、その力は絶大で、武の神、戦の神として、有名な神さまとなっている。また、元々は、神産みにおいて、伊邪那岐命(イザナギ)が、その妻、伊弉冉命(イザナミ)の出産時に、彼女を死に至らしめた火の神、火之迦具土神(カグツチ)の首を切り落とした際に、手にしていた剣、十束剣(とかのつるぎ)、即ち、天之尾羽張(アメノオハバリ)の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱と言われている。その後、古事記では、国譲りにおいて、天鳥船(アメノトリフネ)とともに、葦原中国(あしはらのなかつくに)に降り立ち、抵抗する建御名方神(タケミナカタ)をその力で、諏訪の地に閉じ込め、葦原中国を平定したとされる。また、これが日本書紀だと、建御雷之男神の別名、建布都神(タケフツ)を、経津主神(フツヌシ)という別の神さまとして登場させ、建御雷神に帯同する。そして、この二つの記紀をまたがる建御雷神・経津主神・天鳥船の三神が、この鹿島神宮を含めた東国三社(他、香取神宮・息栖神社)として、それぞれの地に祀られている。
鹿島神社あるある神 鹿島神社でよくみる神々
鹿島神宮は、周辺の香取神社、息栖神社を加えて、東国三社と呼ばれ、関東では、お伊勢参りの後の東国三社参りと呼ばれるほどに、非常に、格の高い神社として、崇敬されてきた(事実、鹿島、香取両神宮に至っては、神宮の呼称を古くから使用されることを認められた神社であり、延喜式神明帳では、その呼称は、伊勢とこの両神宮の3社のみである。さらには、昔は、伊勢と東国の両方を参拝して完成、片方の参拝だけだと、「片参り」と呼ばれたとも伝えられる)。それだけ、この3社の関係は非常に密接なものとなっている。ということで、こちらの神々には、その東国平定にまつわる神をいくつか挙げてみた。

[関係神1]経津主神(フツヌシ)
経津主神は、「古事記」には登場せず、「日本書紀」にのみ登場する神となる。経津主神は、その読みの響きの通り、「フッ」と物が二つに断ち切られる音を表すと言われ、刀剣の威力を神格化したもの、刀剣に宿る霊威を表したものとも言われている。そのため、武神的な側面が見られ、タケミカヅチと対を成す神として、祀られることが多々ある。そのため、武道場では、鹿島大神、香取大神として、この両神々が、神棚に祀られることも多く、武を志す者には、非常に馴染みの深い神となっている。また、物を断ち切る側面から、悪い縁、関係を断ち切るという意味で、縁切り的な側面を持ち合わすことがある。

[関係神2]天鳥船(アメノトリフネ)
※[別名]鳥之石楠船神(トリノイワクスフネ)
天鳥船は、神産みにおいて、伊邪那岐命(イザナギ)と伊弉冉命(イザナミ)の間に生まれた御子神のひとつであり、その名が示すように、神が乗る天空の乗り物とも言われる。これは、当時における頑強で、勇壮な正に神が乗る船を例えらものとも言え、そのため、天鳥船は、船の神、運輸・交通の神とし、「古事記」においても、建御雷神が葦原中国へ降臨される際に、この天鳥船に乗船してきたとされる。

[関係神3]天津甕星(アマツミカボシ)
※[別名]天香香背男(アメノカガセオ)/香香背男(カガセオ)
アマツミカボシは、「古事記」には登場せず、「日本書紀」にのみ登場する神となる。そして、アマツミカボシは、その名から類推される通り、星を司る神であり、一部には、金星を意味するなどとも言われている(後世には、北極星の化身、妙見菩薩と同一視されることもある)。このアマツミカボシは、元々、東国を支配していたと考えられ、最後まで、タケミカヅチに抵抗した神とされている。そのため、倭文神建葉槌命(シトリガミタケハヅチ)という神を派遣し、当時、常陸国の大甕山(おおみかやま)に拠点を構えていたアマツミカボシを制圧したとされる。一般には、香取神宮の香取の語源とは、楫取(かじとり)とされ、船人を統率する人の地と言われているようだが、アマツミカボシの別名に、香という字が多用されていることから、このアマツミカボシの制圧(鎮魂などの意味も含め)に何らかしらの因果があるのではないかと推察することも出来なくはない。また、この最後まで抵抗した神という点で、一部には、諏訪に封じ込められたタケミナカタと同一視する意見もある。

[関係神4]天羽槌雄神(アメノハヅチノオ)
※[別名]建葉槌命(タケハヅチ)
フツヌシ・タケミカヅチでは服従しなかったアマツミカボシを征服した神となるが、その性質は、織物の神となっている。

鹿島神社のご利益
勝利祈願やはり、武の神最強の タケミカヅチ、最大のご利益は何かと言われれば、この勝利・必勝祈願と言える。それは、無敗を誇るタケミカヅチに強く言え、基本、他のご利益もこの勝負強さから見られる御神徳に通ずるものがある。

旅行安全これは、そのタケミカヅチの強さにも関係するのかもしれないが、諸国平定を成し遂げたタケミカヅチは、その道中を安全に移動しているイメージが、この旅行安全と繋がってくる。できれば、フツヌシやアマノトリフネといったタケミカヅチの随行者が共に合祀されていれば、その意味は更に深まるとも言える。

武芸上達こちらは、勝利祈願にも等しいとも言えるかもしれないが、武芸とは勝負事のみとは言い切れない。その点では、武の根源たるタケミカヅチに、その神髄を求める向きもあり、武道場に祀られることが多いのは、まさに、この性質からくるものと言える。

事業成功こちらも、同じく勝利祈願の拡大解釈的な意味合いが強いが、やはり事業をひとつの勝負事として見立てた場合、同様のご利益を求めることができる。それは、出世開運なども同じと言えるのかもしれない。

※ご利益に関しては、あくまで参考程度にお考え下さい。
鹿島神社拡大の歴史
鹿島神宮には、関東の神社では異例な点がひとつある。それは、多くの神社が、いわゆる勧請型と呼ばれる、本社からご分霊をお招きして、神社を建立する経緯を迎えているのだが、その多くは、関西を代表とした地方に発することが多い。例えば、東京都内などは、現地初の神社は非常に少なく、あったとしても、いわゆる総本社と呼ばれる神社は、皆無に等しい。そのため、関東の多くの神社は、西方よりお招きして、東方に至るという信仰のルートをよく見かけるのだが、鹿島神宮は、その点が異なり、関東が勧請元になる珍しい神社と言える。その代表が、奈良県の春日大社となるのだが、こちらは、東方から西方へと伝搬ルートをたどっている。それは、かつて、この地が、東方の軍事拠点として、非常に需要な地位にあったことも関係してくるが、それだけ、由緒が深いことの証明でもある。それは今でも体感できるのは、奈良県と言うと、鹿が有名ではあるが、鹿は元々、鹿島神宮の神の使いであり、春日大社が、そのご分霊を勧請する際、ご神体を鹿に乗せて、移動させていっている。それは、その途上で、神を乗せた鹿の一団を連れる中、力尽きた鹿を祀る地が存在していたりすることで、今でもその当時の出来事を想起させる部分は残っている。東京都江戸川区にある鹿骨(ししぼね)という地名が正に、その由来で、今も、鹿骨香取神社が祀られている。
(1)地方神から神話神との習合
元々、古代の農民は、雷の神を農耕神として祀っており、それが、建御雷神(タケミカヅチ)信仰として、国譲りの神話と習合することによって、武神的側面が認識されるようになった。
(2)東方基地の最前線
この東国三社が祀られるエリアが、蝦夷に対する大和朝廷の前線基地となり、その重要性が高まり始め、中央においてもタケミカヅチがその信仰面においても重要な位置を持つようになる。実際、通常の神社は、参道が拝殿に向かっているのに対し、鹿島神宮は、参道に平行して、社殿が北面している。これは、東北地方の蝦夷への起点ともされ、同じく、香取神宮の参道も迂回する如くまわりくねった参道になっているのも、軍事的に攻め込まれた時を想定して、このような形状をとっているとも言われ、それだけ、この地域が、蝦夷に対する前線基地の様相を呈していたことが伺える。また、それは、鹿島神宮の宝物殿にもある悪路王(あくろおう)、別名アルテイという蝦夷の軍事指導者の首と首桶 が祀られていることからも伺える。
(3)藤原氏の氏神化
中央豪族のひとつ中臣(なかとみ)氏、つまり、中臣鎌足が、鹿島出身とも言われており、大化の改新で活躍、亡くなられた後、藤原姓に改名し、そのままタケミカヅチ、フツヌシが、藤原氏の氏神となる。そして、鎌足の子、藤原不比等は、その御分霊を勧請し、春日大社を創建する。
このように、タケミカヅチを祀る神社は、東の東国三社、西の春日大社に大きく分類されることになる。
神代
鹿島
(茨城県)
タケミカヅチが、国譲りのため、葦原中国に降臨し、その交渉に尽力。成功に終えると、東遷し、各地の平定と開拓に注力したという。そして、東路(あづまじ)の果てに至り、この鹿島の地に留まり、利根川をはさんで、西方の香取を臨みながら、鎮まられたとする。また、この時、天羽槌雄神を派遣し、東国を支配していた天津甕星(アマツミカボシ) を誅したとされる。

神武天皇御代
(紀元前660年)
鹿島神宮
(茨城県)
天種子命(アマノタネコ)を鹿島に遣わし、タケミカヅチを祀る(鹿島神宮の創建)。このアマノタネコこそ、中臣氏の祖先とされ、後の鎌足公の鹿島出身論の根拠となる。

慶雲4年
(707年)
豊鹿嶋神社
(東京都)
武蔵国に、鬼神が来たとされ、その鬼神を常陸峯にて鎮めて、天智天皇第四の姫宮及び蘇我山田石川麿が、鹿島神宮よりご分霊を勧請したと伝えられる。

和銅3年
(710年)
春日大社
(奈良県)
藤原不比等が、藤原氏の氏神として、鹿島神のご分霊を、春日の御蓋山(みかさやま)に勧請し、奉祀したと伝えられるが、あくまで伝承上によるものとなる。

奈良時代未明
(ーーー年)
鹿骨鹿島神社
(東京都)
鹿島大神が、春日へのご分霊の際、多くの鹿が、神鹿として、一年もの歳月をかけて、遷座される。そして、その神使とされる神鹿が病に伏し、当地で亡くなられたとされる。そして、それを里人が丁重に弔い、結果、鹿骨(ししぼね)鹿島神社が創建されたとする。因に、同地域にある鹿見塚神社 も、同様の起源によるものとされる。

神護景雲2年
(768年)
春日大社
(奈良県)
社伝上では、春日大社が創建されたのが、この年となり、藤原永手(ふじわらのながて)が、鹿島大神と香取大神のご分霊を勧請し、枚岡神社より天児屋根命(アメノコヤネ)と比売神(ヒメノカミ)の御分霊を勧請し、春日大神として、御蓋山の麓に奉祀したとされる。

延暦21年
(802年)
鹿島神宮
(茨城県)
蝦夷の軍事的指導者、悪路王が、坂上田村麻呂(サカノウエタムラマロ)によって、討ち取られる。その後、凱旋の途中で、鹿島神宮に立ち寄り、悪路王の首を鹿島神宮に納めたとされる。