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総本社1.諏訪大社上社本宮
2.諏訪大社上社前宮
3.諏訪大社下社春宮
4.諏訪大社下社秋宮
所在地1.(〒392-0015)長野県諏訪市中洲宮山
2.(〒391-0013)長野県茅野市宮川2030
3.(〒393-0092)長野県諏訪郡下諏訪町193
4.(〒393-0052)長野県諏訪郡下諏訪町5828
系列社諏訪神社、諏訪社、南方神社 他
同系神社なし
備考・諏訪神社は、全国に7000〜10000社以上あり、全国諏訪神社連合会を結成している。
・諏訪神社の総本社、諏訪大社は、上社本宮・前宮/下社春宮・秋宮の4社から成り立つ。
・ご神体を、薙鎌(なぎがま)という武具とし、各地の諏訪神社でもこれを祀っている。
・諏訪大社には、本殿が存在しない。
・諏訪神社の御柱祭(みはしらさい )は、日本三大奇祭りのひとつに数えられる。
諏訪神社基本神
[代表名]建御名方神(タケミナカタ)
[別名]諏訪大明神(スワダイミョウジン)
[別名]南宮大明神(ナングウダイミョウジン)

タケミナカタは、大国主命(オオクニヌシ)の御子神であり、古事記と新潟県糸魚川市に残る伝承では、大国主命が、八千矛神(ヤチホコ)と呼ばれた時代、高志国(こしのくに:北陸一帯)の沼河に住む美女の噂を聞きつけ、一緒になったのが、沼河比売(ヌナカワヒメ)で、その時に生まれたのが、このタケミナカタという。妻は八坂刀売神(ヤサカトメ)で、元々は、その語源を水潟(ミナカタ)とし、水の神と考えられている部分もあるが、一般的には、力持ちの神として有名となっている。そのため、タケミナカタは、日本三軍神のひとつで、日本第一の軍神にも数えられてはいるが、実際には、国譲りの話では、建御雷神(タケミカヅチ)に全く歯が立たず、敗走しているため、あまり強いとの印象を受けない。

では、何故、タケミナカタが武神としての崇敬を集めているのか、一部には、タケミナカタの力とは、単なる攻撃的な力の象徴とは異なるからと言われている。それは、タケミカヅチが、圧倒的な強さを誇り、国譲りを宣告してきた時、その最初の交渉にあたった事代主命(コトシロヌシ)は、即座に降参してしまう有り様だった。そんな時に、タケミナカタは、臆することなく、戦いを挑んだ(この時の勝負が相撲の起源と言われる)、その勇気、それこそが、このタケミナカタの最大の力と言われている。これは、ある意味、非常に日本人的な発想なのかもしれないが、この相手が巨大であろうとも挑むその不屈の勇気というものを、このタケミナカタに求めていると言われている。このため、タケミナカタは、武勇掲揚の神とも言え、一言で表すならば、「勇」という言葉に言い換えることもできるのではないかと考えられる。

確かに、諏訪大社で行われる御柱祭は、時には死者も出る非常に危険な祭りで有名である。そんな危険な祭りに挑むのもある意味、こうした不屈の勇気を与える諏訪信仰ならではのものと言うこともできる。また、元々、諏訪の地は、洩矢神(ヤモリシン)と呼ばれる土着神が支配しており、これを制したタケミナカタは、最終的には、タケミカヅチに追い込まれる形で、逆に諏訪の地に封じ込まれてしまう。ある意味、皮肉な話ではあるが、因に、長野県の善光寺は、タケミナカタの城の跡地に建てられていると伝えられている。

そんなタケミナカタは、この他、農業神、狩猟神を司る神とも言われている。特に、この地は、狩猟が盛んで、かつて行われていた御頭祭(おんとうさい)では、75頭分の鹿の生首や串刺しのウサギ、イノシシの頭、鹿の脳みそといった他では考えられないほど血なまぐさい供え物で溢れていたと言われるが、これも狩猟信仰独特のものと言われる(現在は、剥製を使用)。更には、タケミナカタは、風を司る神とも言われ、その御神威が神風を起こし、元寇を退くことが出来たとも言われており、日本第一の風神と鎌倉幕府にも認められている。
諏訪神社あるある神 諏訪神社でよくみる神々
諏訪神社は、先ず、タケミナカタを祀る神社と言っても過言ではないかと思われる。現在の神社人DB上でも、建御名方神以外を主祭神に祀る諏訪神社の存在は、確認されていない。これは、ある意味、古事記などの史記の存在でも、国津神という地上神の流れを汲むことからも、天照大神(アマテラス)を代表とする天津神系、皇祖の流れと比べると、反主流派という意味もあるのかもしない(あまり他の神さまと一緒に祀られているケースは見ない)。しかも、タケミナカタの存在が、非常に低く扱われているのも、一部には、一時、中央でも大いなる権勢を誇った中臣(なかとみ)氏の祖神が、タケミナカタの敵であったタケミカヅチにあったことから、タケミナカタを必要以上におとしめたという説もあり、比較的不遇な扱いを受けた神さまと考えれば、一緒に祀られる神さまがあまり見られないというのも頷ける話ではある。

ただ、結果として、タケミカヅチを祀る鹿島神社より諏訪神社の方が、数多い系列社を有している点を考えると、その評価とは裏腹に、諏訪信仰の方が、着実に支持を集めていっているという穿った見方も出来なくはない(試合には負けたが勝負には勝ったという感じだろうか)。

そんな諏訪神社ではあるが、一緒に祀られる神さまも全くいないという訳ではなく、やはり、ここで挙げられるのは、家族神というところで、妃神のヤサカトメは、比較的見られる神さまとなる。また、同様の理由で、タケミカヅチの国譲りのくだりで、最初の交渉役で登場した兄神のコトシロヌシも、一緒に祀られることが稀にある。

[関係神1]八坂刀売神(ヤサカトメ)
タケミナカタの妃神にあたる女神となるが、神話には登場しない神となるため、非常に謎が多い。ただ、諏訪湖では、冬、湖面の表面に氷が張り、そこに昼夜の寒暖が、氷の収縮をもたらすことで生じる御神渡(おみわたり)という氷の亀裂に生じる突起物が氷結する現象は、上社に祀られているタケミナカタが下社のヤサカトメの下を訪れる際にできたものと言い伝えられている。

[関係神2]事代主神(コトシロヌシ)
※[別記]八重言代主神(ヤエコトシロヌシ)
※[同義]えびす天
コトシロヌシは、オオクニヌシと神屋楯比売命(カムヤタテヒメ)との間に生まれた御子神で、タケミナカタとは、母違いの兄神となる。神話では、タケミカヅチが、国譲りをオオクニヌシに迫ると、オオクニヌシは、美保ヶ崎で漁をしている息子のコトシロヌシに聞いてくれと言われ、実際に、コトシロヌシに迫ると、「承知した」と一言を残し、一目散に逃げ、隠れてしまったと言う。そのため、印象の薄い感じだが、このコトシロヌシは、「事を知る」という語源が変化したと言われ、宣託を司る神と言われる。そのため、たかが「承知した」というたった一言ではあるが、その事代主神によるその一言は非常に重いものとなる。実際、オオクニヌシは、180にも上るオオクニヌシの子は、コトシロヌシの決定に従うと言い放ち、コトシロヌシの一言の重さを象徴的に表している(今でいうカリスマリーダーの発言に近いのだろうか)。また、登場シーンが、美保ヶ崎で漁をしている最中だったことから、釣り好きの神と言われ、その結果、七福神のひとつ、えびす天と習合していくことになる。そういったイメージも含め、コトシロヌシは、海洋神、豊漁の神、商売繁盛の神などの性質も併せ持つとされている。
諏訪神社のご利益
勝利祈願やはり、諏訪神社の基本、ご利益と言えば、勝利祈願と言える。しかも、その性質をタケミナカタに習えば、非常に困難な状況における勝利祈願ということもできる。そして、そのための勇気を諏訪神社で授かることになる。

商売繁盛タケミナカタの水・風といった自然神的側面が農業を豊かにし、また、狩猟の神をも司る点から、豊かな恵みを求める、転じて、商売繁盛の側面を持っている。更に、コトシロヌシが一緒に祀られているようであれば、その意味合いは、更に深まる。諏訪大社の場合、下社春宮と秋宮の二社に関しては、コトシロヌシが祀られているので、商売繁盛の意味が更に深いと言うことができる。

子授かり実は、タケミナカタは、ヤサカトメとの間に、13柱もの御子神を生んでいる。そして、それが、信濃開拓に発展したとされる経緯から、子授かりや子孫繁栄の側面を持っている。これも出来れば、単神よりヤサカトメも一緒に祀られていた方がよい。しかも、この組み合わせには、恋愛成就や縁結び的な意味合いも生じることになる。

※ご利益に関しては、あくまで参考程度にお考え下さい。
諏訪神社拡大の歴史
諏訪神社の起源は、諏訪大社に始まるが、日本国内における最も古い神社のひとつに数えられるものの、実は、その起源の具体的時期などは定かではない。そのため、どのような変遷を経て、拡大の一途を辿ったのか、非常に分かりにく印象があるが、諏訪大社の祭事が、非常に独特であることからも、ディープな文化圏が存在したことが伺える。つまり、大衆性の低いコアな信仰面が目立つということは、それだけ、拡散までには、時間を要したことが伺え、じわじわとその幅を広げてきたかの印象を受ける。特に、その信仰エリアは、北条氏の所領に多いとされ、それは、諏訪大社の大祝を務めてきた一族である諏訪氏が、北条家に仕えたことから、全国に分布するようになったと言われている。
(1)謎多き創建時代
諏訪大社の創始は相当古いと言われているものの、具体的な年代特定には至っておらず、謎が多い。
(2)北条家の庇護
諏訪大社上社の大祝(おおほうり)と呼ばれる諏訪明神の化身、現人神(あらひとがみ:この世に人間の姿で現れた神)として諏訪大社の頂点に位置する最高位の役職を務めた諏訪家(下社を務めたのが、金刺家)が、鎌倉幕府の中枢を握る北条得宗家の被官(ひかん)となったことから、着々と勢力を強めていき、南北朝時代以降、徐々に、戦国大名化していく。
(3)武田家との和睦
当初は反目していた甲斐の武田家であったが、諏訪家第19代当主、諏訪頼重(すわよりしげ)の時に和睦を果たし、その娘、諏訪御料人(すわごりょうにん)は、武田信玄の側室となり、武田勝頼を生み、武田家との結びつきを深めて行った。
(4)徳川大名化による復権
武田家の衰亡にそって、諏訪家の力も衰え始めたが、江戸時代には、徳川家に仕え、大名として復権を果たし、その力を再び強めていった。
諏訪大社の場合、仏教との習合化による爆発的な広がりはないが、時の権力と同調を図りながら、着実にその勢力を強めて行ったと考えられる。
神話期
(ーーー年)
諏訪大社
(長野県)
諏訪大社が創建されるが、具体的な時期は不明となる。

大同2年
(807年)
諏訪神社
(千葉県)
高市皇子(たけちのみこ:40代天皇天武天皇の皇子)の後裔が移住し、この地を永住の地と定め、当地開発の守護神として、諏訪大社からご分霊を勧請する。

孝徳天皇8年
(652年)
諏訪大社
(長野県)
以降、持統5年(691年)、大宝3年(703年)の三度に渡り、朝廷から勅使が派遣される。

弘仁2年
(811年)
立川諏訪神社
(東京都)
東京の立川の地に、諏訪上社よりご分霊を勧請し、立川諏訪神社が創建される。。

承和9年
(842年)
諏訪大社
(長野県)
諏訪大社が、従五位下に列せられる。

貞観9年
(867年)
諏訪大社
(長野県)
諏訪大社が、従一位に列せられる。

天慶3年
(940年)
諏訪大社
(長野県)
諏訪大社が、延喜式において、最高位である名神大社に列し、信濃国一之宮となる。

元久2年
(1205年)
西日暮里諏訪神社
(東京都)
豊島左衛門尉経泰が、諏訪大社より御分霊を勧請する。

永仁2年
(1375年)
諏方神社(南宮)
(福島県)
当時の領主直盛が諏訪大社よりご分霊を勧請する。

応永3年
(1396年)
赤羽北諏訪神社
(東京都)
真頂院の第一世秀善和尚が諏訪大社より御分霊を勧請する。

文明12年
(1470年)
諏訪大社
(長野県)
諏訪大社の上社と下社の対立が激化(諏訪氏と金刺氏)。戦闘状態に入り、下社、金刺昌春が、甲斐の武田信虎(武田信玄の父)の元へ落ち延びる。これにより、武田家による諏訪平定の口実を与える事になり、結果、諏訪氏は一時滅亡に追い込まれ、最終的には、武田に所領を奪われることとなる。

天正10年
(1582年)
諏訪大社
(長野県)
織田信長と武田家の対立が激化。織田信長の信濃国侵攻に合わせ、一旦滅亡に追い込まれた諏訪一族の生き残りが、地域各所より集まり、諏訪頼忠を頭領として、諏訪の地を再び取り返す。

慶長5年
(1600年)
諏訪大社
(長野県)
織田信長の死後、不安定な時期を過ごすこととなるが、最終的には、徳川家康の配下となり、秀吉の時代を静かに過ごし、関ヶ原の合戦で、信濃国の武士の活躍もあって、旧領を復帰し、諏訪頼水が、諏訪高島藩の譜代大名として、存続することとなる。

明治4年
(1871年)
諏訪大社
(長野県)
諏訪大社が、国幣中社に列せられる。

明治15年
(1882年)
札幌諏訪神社
(北海道)
信濃出身の上島正他30余名が、当地に入植した後、諏訪大社の御分霊を勧請する。

明治29年
(1896年)
諏訪大社
(長野県)
諏訪大社が、官幣中社に列せられる。

大正5年
(1916年)
諏訪大社
(長野県)
諏訪大社が、官幣大社に列せられる。

基本、諏訪神社は、非常にコアな信仰形態をとっているため、そのオリジナルの存在感が強く、従って、中央集権的に、諏訪大社という総本社より直接勧請されるケースが大半と見られる。そして、歴史の表舞台とも非常に密接な関わりを持っており、これも軍神としての存在感が、良くも悪くも武家社会における政治的なつながりに利用されやすいことから、こうした傾向に落ち着いているとも言える。因に、その分布先は、沖縄県を除いて、ほぼ全国にまたがっているとみられている。