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総本社愛宕神社
所在地(〒616-8458)京都府京都市右京区嵯峨愛宕町1
系列社愛宕神社、愛宕山神社 他
同系神社秋葉神社(秋葉山本宮秋葉神社上社
備考・愛宕神社の系列社は、全国に900社以上あるとされる。
・京の東を守護する比叡山に対し、西の守護として信仰を集める。
愛宕神社基本神
[古事記名]火之迦具土神(ヒノカグツチ)
[日本書紀名]軻遇突智神(カグツチ)
[別名] 火産霊神(ホムスビ)
[通称] 加具土命(カグツチ)

カグツチは、伊邪那岐命(イザナギ)と、その妻、伊弉冉命(イザナミ)との間に生まれた神であり、火を司る。また、その性質から、イザナミは出産時に、陰部を火傷してしまい、結果、衰弱死に至らしめる経緯から、父神、イザナギによって、斬り殺されてしまう悲運の神でもある。カグツチは、男性神と言われ、その正式名、火之夜藝速男神(ヒノヤギハヤヲ)は、「燃えている男の火の神」といった意味を示しているという。更には、その名の迦具(カグ)は、「輝く」を示す、物の焦げる匂い「嗅ぐ」を示すなどとも言われ、何れも火・炎のイメージを想起させるものとなっている。このため、カグツチは、火防の神、または、鍛冶の神、火力の神として崇められてきている。また、中には、世の中の動力が火力を基本とすることから、カグツチの力が、産業界にも及ぶとし、特定の大型機械操業が認められる事業などにもご神徳があると解釈する神社も存在する。因に、カグツチが斬り殺されたことによって、その肉片、血からも様々な神々が誕生している。
愛宕神社あるある神 愛宕神社でよくみる神々
基本、愛宕神社は、カグツチを祀る神社であるため、周辺神社の合祀の場合を除いて、特定の神がセットで祀られるということはあまりない。しかし、その総本社となる京都の愛宕神社では、他、複数の神々が祀られており、特筆すべきは、カグツチにおける不幸の根源ともなったイザナギとイザナミの両親神までもが共に祀られていることは、非常にユニークであると言える。しかも、この組み合わせは、ごく稀に見ることができ、これが、本来の家族像とする希望的な見方によるプラスのイメージでの合祀なのか、問題のあるマイナスの組み合わせを意図することで、その力の強さを引き出そうとするマイナスのエネルギーの活用なのかは分からないが、何かしらの意図はあると推定できる。
愛宕神社のご利益
火防守護愛宕神社の基本ご利益と言えば、この火防守護は最大のものと言える。特に、これは日本に強く言えることだが、日本では、火防守護に対する信仰が特に強い。これは、一部には、日本の伝統的家屋が木造であるため、火災などが起きると壊滅的打撃を受けるその建築様式とも非常に深い関係があると類推することが出来る。それは、京の守護を火防という点で担っていたことからも類推できる。そして、この火防には、火傷などの火にまつわる災難に対してもご利益があるとも言われる。

家内安全これは、火防守護の拡大解釈とも言えなくもないが、やはり家屋の安定は、生活の安全とも言える。京都の飲食店や一般家庭の多くでは、厨房、台所にこの愛宕神社の火防の札を祀ることが広く一般的なこととなっている。それは、同様に、家内の安全を司るという点で、同様の意味と言うことも出来る。

殖産振興冒頭でも記述した通り、火の信仰とは、力、火力そのものを意味することもある。そして、それは、現代のエネルギー事情をもっても、火力はまだその中心的役割のひとつと言え、そのため、東京都港区の愛宕神社では、印刷業やコンピュータ関連業などの大型電力を消費する事業にも良いとされ、その根拠は、火力のご神徳にあるとする考えを取っている。また、カグツチを鍛冶の神とすることから鉄鋼業などにも良いと言えるが、火に関わる事業全般に対して言うことが出来るため、結局、どの事業にも共通して関連することではある。

※ご利益に関しては、あくまで参考程度にお考え下さい。
愛宕神社拡大の歴史
愛宕神社の発展は、仏教との習合が大きく作用している。それは、愛宕山が修験道の地として篤く信仰を受けた経緯からも説明でき、明治以前までは、愛宕神社ではなく、愛宕山白雲寺として、存在していたことからも伺える。そして、何より火防の性質が、全国共通の受けたいご利益として非常に高い位置を占めていたことも予想される。それは、日本の家屋が木造建築で、非常に燃えやすい上、竃(かまど)という火を多用する文化であったことから、火の恵みと怖さの両方を知った文化圏であったことが深く関係している。
(1)修験道との習合
愛宕山は、京都の西方の守護、とりわけ京の火難除け、盗難除けの神として信仰され、また、修験道七高山の一つとされ、修験道の地として非常に栄えた。その後、愛宕権現が、火防の神として、愛宕修験によって、全国に信仰が広まっていった。かつては、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」と呼びはやされていたという。
(2)武家による信仰
本殿に祀られた将軍地蔵を本尊に祀ったことで、戦国時代には、武神としての側面でも武士にも浸透していった。
(3)徳川家康の信仰
徳川家康が、江戸の守護のために、愛宕権現を信仰し、御分霊を勧請。それが、契機に、全国へ爆発的に広まっていった。
このように、火防としての側面が強調されることによって、愛宕神社は全国へと拡大していったと考えられている。
継体天皇元年
(512年)
亀岡愛宕神社
(京都府)
元々、山岳信仰から発生したものになるが、この年初めて初めて亀岡の地に社殿が建立される(現在の愛宕神社総本社とされるものとは別)。

奈良時代
(ーーー年)
愛宕山
(京都府)
修験道の開祖とされる役小角(えんのおづの)と泰澄(たいちょう)が、愛宕山で天狗に出会ったとされる(天狗の本拠地)。そして、朝日峰に神廟を創設し、愛宕山の修験道として開山が促される(後に、天狗を愛宕太郎坊天狗として、奥の院、現在の若宮に祀っている)。

天応元年
(781年)
愛宕神社
(京都府)
光仁天皇の勅によって、和気清麻呂(わけのきよまろ)が、愛宕五坊(愛宕権現白雲寺・月輪寺・神護寺・日輪寺・伝法寺)が建立する。そして、亀岡愛宕神社からご分霊をこの時、遷座したとされる。

保元元年
(1156年)
春日大社
(奈良県)
第76代近衛天皇が亡くなった後、当時、院政を敷いていた鳥羽法皇が、天皇の甥である重仁親王を擁立しようとしたところ、親王の父である崇徳上皇が藤原頼長に命じて愛宕神社で呪詛を行わせて、天皇の呪い殺したという噂が広まり、法皇はこれに激怒、保元の乱が発生したとされる。

戦国時代
(ーーー年)
愛宕神社
(京都府)
本殿に将軍地蔵を本尊として祀り、火防せの神である愛宕権現と習合したことにより、武神としての側面が発現。戦国時代の武士に崇敬を集めるようになる。

天正10年
(1582年)
愛宕神社
(京都府)
明智光秀が戦勝祈願のため、愛宕神社に参拝。本能寺攻めをくじ引きで占う(3度の凶、4度目で吉)。

慶長8年
(1603年)
愛宕神社
(東京都)
徳川家康の命により、江戸に愛宕権現のご分霊が勧請される(将軍地蔵菩薩も同様に祀る)これにより愛宕信仰が全国に更に浸透(多くの神社が、東京の愛宕神社からご分霊を勧請している。そのため、東京の愛宕神社は、京都の総本社と同格の扱いを受ける)。

明治元年
(1861年)
愛宕神社
(東京都)
明治の神仏分離令によって、将軍地蔵菩薩は、大本山妙心寺に勧進移座し、愛宕神社は、愛宕権現を火防の神として、カグツチを主祭神として、改めて祀る。

因に、延喜式神明帳には、阿多古神社という神社が記載されているが、その比定社には、亀岡愛宕神社と総本社の愛宕神社の両社に何れかとされるが、何れを指しているかはまだ確定出来ていない。