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日本神話の見るなのタブー
見るなのタブー」とは、「見てはいけませんよ」という警告を無視して、それを見てしまったがために、悲劇に見舞われるタイプの話で、これは、世界各地に多くの類似ストーリーがあります。「鶴の恩返し」や「浦島太郎」なんかは正にその典型で、「分かっちゃいるけどやめられない」といった、「人」本来が持つ性格的矛盾を表しているとも言えます。

そんな類型の話を総称して、「見るなのタブー」と呼ぶのですが、こちら古事記にもそんなタブーの話が何度か登場します。そして、その最初に登場するのが、これから始まるイザナギとイザナミの黄泉の国エピソードとなります。

妻、イザナミを失い、悲嘆に暮れるイザナギは、その想いを諦め切れず、黄泉の国にいるというイザナミに会うことを決意します。黄泉の国は、日本神話における死者の世界で、いわゆる「あの世」の世界です。

そして、イザナギは、黄泉の国へと通ずる黄泉比良坂(よもつひらさか)を訪れ、そのまま黄泉の国との境にある根の堅州国(ねのかたすくに)へと向かいました(一説には、黄泉の国と根の堅州国は同じとする考えもあります)。

しかし、時既に遅し、イザナミは、既に黄泉の国の物を食べてしまったため、元の国には帰ることができない体となってなっておりました。しかし、それを知らないイザナギは、イザナミの近くまで訪れ、その扉の向こうにいるであろうイザナミに対し、その熱い想いを伝えるのでした。
そして、イザナギは、扉の向こうにいるイザナミに、「なぜこんなに早く死んでしまったのだ。もう一度、力を合わせて国造りに励もうではないか。」と共に帰ることを提案します。しかし、既に、黄泉の国の住人となってしまったイザナミにとって、これは大変難しいことではありました。

しかし、イザナギの熱意に負け、イザナミは、黄泉の神々に掛け合うことにしました。ただし、それは時間が必要とのことで、少し待っているようにと言い残し、イザナミはその場を離れました。

しかし、なかなか返事がこないイザナミに、しびれを切らせたイザナギは、その約束の時を待たず、扉を開き、イザナミに会いに行ってしまいました。
すると、イザナギの目に飛び込んで来たのは、8柱の雷神をまといながらも、体が腐敗し、ウジ虫の湧くイザナミの変わり果てた姿でした。驚いたイザナギは、その場を逃げ去ろうとしますが、約束を破り、姿を見られたイザナミは、怒りに震え、逃げるイザナギを追いかけます。そして、ここから、イザナミによるイザナギ追走劇が始まります。
逃げるイザナギ、追うイザナミ。先ずは、イザナギの元に、黄泉醜女(ヨモツシコメ)が遣わされます。ヨモツシコメは、黄泉の国住む鬼女で、ひとっ飛びで、千里(約4千キロ)を走る俊足の鬼女でした。

迫り来るヨモツシコメに対し、イザナギは、先ず、つる草で出来たクロミカヅラ(髪飾り)を投げつけつけます。すると、そこから、山葡萄の実が実り、ヨモツシコメの注意をそらすことに成功しました。しかし、ヨモツシコメは、山葡萄を全て喰らい尽くすと、すぐさま、イザナギの元を追いかけ直します。

続いて、イザナギは、角髪(みすら:太古の人たちの髪型の一種)から湯津津間櫛(ゆつつまくし:クシの一種)を取り出し、そのクシの歯を折って投げ付けました。すると、今度は、ニョキニョキとタケノコが生えてきて、再び、ヨモツシコメの注意をそらし、何とかヨモツシコメの手から逃げ切ることができました。

そして、、生と死の境である黄泉比良坂付近まで逃げ延びることに成功します。しかし、今度は、雷神が黄泉の醜女(軍勢)を率いて、イザナギの元に迫りました。イザナギは、その場に生えていた桃の木から実を3つほどもぎ取り、迫り来る黄泉の醜女に投げつけました。すると、黄泉の醜女たちは、何故かその場から逃げさってしまいました。
こうして、イザナギは、桃の力に助けられ、無事、黄泉の国から逃げ帰るこができました。そして、その入り口を千引岩(ちびきいわ)で塞ぎました。すると、岩の扉の向こうから、イザナミは「私は死の国の神となって、地上の国の人たちを毎日1000人殺します。」と叫びました。

すると、イザナギは、「それでは、私は毎日1500人の子どもを誕生させよう。」と答え、こうして、仲睦まじかったイザナギとイザナミは別々の道を歩んで行くことになりました。因に、この時の問答が元で、この黄泉への道を塞いだ岩を千引岩と名付けたと言われています。
そして、この問答の意味は、一説には、「人は多く死んでいくが、人口は何故か増え続けていくという人口増大」について語った場面と言われ、人の寿命について触れた最初の記述とも言われます。そして、この時、桃の木に助けられたことから、その感謝の証として、この桃に意富加牟豆美命(おおかむずみ)という名が付けられました。残ったイザナミは、黄泉の国に残り、 黄泉の国を統括する女神として、黄泉津大神(ヨモツオオカミ)と呼ばれるようになりました。
揖夜神社(いやじんじゃ):島根県松江市東出雲町揖屋2229
揖夜神社は、黄泉比良坂の比定地の近くにある神社で、その祭神にはイザナミを祀ります。出雲風土記には、伊布夜社(いふやのやしろ)と呼ばれ、黄泉比良坂を塞いだ千引岩を道反の大神(ちがえしのおおかみ)といい、この世に残った黄泉路の半分側を伊賦夜坂(いふやさか)と言うことからも黄泉の国と非常に関連性の高い地と見なされています。更には、この黄泉比良坂の比定地とされる場所が、当社より南東2キロの平賀(ひらか)地域とされておりますが、この平賀も「ひらさか」に語源を置くとしています。因に、この黄泉比良坂の比定地にはもう一カ所あり、それが猪目洞窟(いのめどうくつ)と呼ばれるところで、こちらも同じ島根県の出雲市猪目町にあるとし、黄泉の穴とも呼ばれています。
佐太神社(さだじんじゃ):島根県松江市鹿島町佐陀宮内73
佐太神社は、出雲國三大社の一つとして、中世にはイザナミの陵墓である比婆山の神陵を遷し祀った社と伝えられました。その詳細は不明ですが、神在祭でも非常に重要な位置を占めるなど、その存在には深い意味があると考えられています。
花窟神社(はなのいわやじんじゃ):三重県熊野市有馬町上地130
「日本書紀」によれば、イザナミが埋葬された地が、紀伊国熊野の有馬村といい、季節の花を供えて祭ったと記されており、その場所がこの地と伝えられています。
三貴神の誕生
なんとか、地上の世界に逃げ帰ったイザナギは、その黄泉の国で穢れた体を清めるため、一路、日向(ひむか)の阿波岐原(あわきがはら)に向かいます。そして、その場で禊ぎを行いました。これが、禊ぎが登場した最初の話となります。そして、この禊ぎのエピソードから何と27柱もの神々が誕生することになりました。
こうして、イザナギの禊ぎは多くの神々を生みました。その性質を細かく見て行くと、先ず、イザナギが身にまとっていた衣類/装飾品の数々から神々が生まれます。

杖から生まれた衝立船戸神(ツキタツフナト)は、岐の神(チマタ)または辻の神(ツジ)と呼ばれるもので、一般に、『疫病や災害をもたらす悪神の侵入を防ぐ』神として崇拝されています。これは、褌(ふんどし)から生まれた道俣神(チマタ)も同じです。これらは、特に、村への侵入妨害の目的で、道の分岐点や交差点に祀られることが多く、方位学と深く関係することもあり、『境界を守る』神とも言われております。

続いて、帯から生まれた道之長乳歯神(ミチノナガチハ)は、『長い道』を表し、衣服から生まれた和豆良比能宇斯能神(ワヅラヒノウシ)は、煩わしいことから解放される、つまり、『苦しみや病からの回復』を意味すると言われます。冠から生まれた飽咋之宇斯能神(アキグヒノウシ)は、口を開けて穢れを喰らう姿とされ、これも『厄除』の神のひとつになります。

首飾りから生まれた御倉板挙之神(ミクラタナノ)は、本居宣長いわく、『御倉の棚の上に安置する動作』を神格化したものとしておりますが、詳しい意味はよく分かりません。袋からは生まれた 時量師神(トキハカシ)は、時置師神(トキオカシ)ともされ、解き放つの「解き」からきているされ、『袋の口を開ける」動作』を神格化したものと言われます。

最後、左右の腕輪(手袋)からは、それぞれ3柱の神々が生まれます。先ず、左手の腕輪(手袋)からは、奥疎神(オキザカル)奥津那芸佐毘古神(オクツナギサビコ)奥津甲斐弁羅神(オキツカヒベラ)の3柱の神々、右手の腕輪(手袋)からは、辺疎神(ヘザカル)辺津那芸佐毘古神(ヘツナギサビコ)辺津甲斐弁羅神(ヘツカヒべラ)の3柱の神々がそれぞれ生まれます。これはそれぞれ上から、『沖から遠ざかる』『沖の渚』『沖と渚の間を掌る』意味を司るとされ、『沖合までの海水の動きを表している』とも言われます。

これらの神々は、動作や様相にその神威を持たせた感じで、厳密にはどのような意味を持つかはよく分かっておりません。ただ、禊ぎという行為や行動に深く関わる神々には間違いなさそうです。

そして、禊ぎを行った身体からも神々が生まれます。先ずは、その体の垢からは、八十禍津日神(やそまがつひ)大禍津日神(おほまがつひ)が生まれます。これら両神は、禍津日神(まがつい)と言われ、いわゆる『災厄』の神となります。

そして、この時生まれた『禍(まが)を流す』神として、神直毘神(カムナオビ)大直毘神(オホナオビ)伊豆能売(イヅノメ)の3柱の神々が生まれます。これらは、『穢れを払い禍(まが)を直す』神とされます。

続いて、多くの神社でも有名な神々も登場します。それが、禊ぎをする水中よりその位置の異なる3点から、各2柱計6柱の神々が生まれます。水底から、底津綿津見神(ソコワタツミ)底筒之男神(ソコツツノヲ)、水中から、中津綿津見神(ナカワタツミ)中筒之男神(ナカツツノヲ)、水の表面から上津綿津見神(ウハツワタツミ)上筒之男神(ウハツツノヲ)となります。そして、この2系統を代表して、それぞれを綿津見三神(ワタツミサンシン)とか住吉三神(スミヨシサンシン)と言います。

これら全ては、『』の神となり、航海安全水難守護など海上関係に関わる神さまとして、よく見られます。綿津見三神は、別名、大綿津見神(オオワタツミ)であるとされ、こちらは、神生みの時に登場した神様との類似性が指摘されています。住吉三神は住吉神社で祀られている非常に有名な神さまとなります。

そして、いよいよ最後に、この後のストーリーの主役となる神々が現れます。それが、いわゆる三貴神と呼ばれる神々で、イザナギの左目から皇祖神である天照大神(アマテラス)右目から月読命(ツクヨミ)、そして、最後、鼻から建速須佐之男命(タケハヤスサノヲ)、こと、素戔男尊(スサノヲ)の3柱の神々が誕生しました。そして、ここから、物語は、アマテラスを中心に進んで行くことになります。
江田神社(えだじんじゃ):宮崎県宮崎市阿波岐原町字産母127
江田神社は、黄泉の国から帰還した伊邪那岐尊が、禊ぎを行ったとされる比定地「日向の阿波岐原」の地にある神社と言われています。もともと、このあたりは、入り江となっており、その後、開墾されたことから「江田」と名付けられたようです。一応、現在も「みそぎ」発祥の地として、みそぎ池が近くにあります。
住吉神社(すみよしじんじゃ):福岡県福岡市博多区住吉3-1-51
こちらの住吉神社の境内にある天龍池(潮入りの池・ひょうたん池)も黄泉国から戻った伊弉諾尊の禊ぎの場と伝えられている比定地のひとつとされ、禊ぎから生まれた住吉三神を祀る最も古い神社とされ、三大住吉のひとつとされる。
小戸大神宮(おどだいじんぐう):福岡県福岡市西区小戸2-6-1
小戸大神宮も同じく、伊邪那岐命が、黄泉の国から脱出した後に、そのケガレを禊いだ地と伝えられている。特に、、祝詞にもある“おどのあはぎはら”の“おど”が、当地の「小戸」ともしており、そうした伝承の一説が語られる地ともなっている。
清めの塩の始まり
実は、こちらイザナギが、禊ぎを行った時、それが海水だったと言われており、それを起源として生まれたのが、清めの塩と言われています。その後、民間で潮(塩)垢離(しおごり)と呼ばれる海水を浴びる清めの作法や塩湯(えんとう)といった海水を沸かしたものを使用し無病息災を願う信仰につながり、現在に継承されていると言われます。これは、死を穢れとする神道思想に基づく土着信仰の表れで、仏教の中では、浄土真宗を代表とする一部宗派では、死に対する考え方が異なるため、清めの塩を使用しないケースもあります。ですので、葬儀の時などは特に、教義や宗派などを予め確認しておきましょう。
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