継体天皇元年 (512年) | | 亀岡愛宕神社 (京都府) | | 元々、山岳信仰から発生したものになるが、この年初めて初めて亀岡の地に社殿が建立される(現在の愛宕神社総本社とされるものとは別)。 |
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奈良時代 (ーーー年) | | 愛宕山 (京都府) | | 修験道の開祖とされる役小角(えんのおづの)と泰澄(たいちょう)が、愛宕山で天狗に出会ったとされる(天狗の本拠地)。そして、朝日峰に神廟を創設し、愛宕山の修験道として開山が促される(後に、天狗を愛宕太郎坊天狗として、奥の院、現在の若宮に祀っている)。 |
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天応元年 (781年) | | 愛宕神社 (京都府) | | 光仁天皇の勅によって、和気清麻呂(わけのきよまろ)が、愛宕五坊(愛宕権現白雲寺・月輪寺・神護寺・日輪寺・伝法寺)が建立する。そして、亀岡愛宕神社からご分霊をこの時、遷座したとされる。 |
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保元元年 (1156年) | | 春日大社 (奈良県) | | 第76代近衛天皇が亡くなった後、当時、院政を敷いていた鳥羽法皇が、天皇の甥である重仁親王を擁立しようとしたところ、親王の父である崇徳上皇が藤原頼長に命じて愛宕神社で呪詛を行わせて、天皇の呪い殺したという噂が広まり、法皇はこれに激怒、保元の乱が発生したとされる。 |
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戦国時代 (ーーー年) | | 愛宕神社 (京都府) | | 本殿に将軍地蔵を本尊として祀り、火防せの神である愛宕権現と習合したことにより、武神としての側面が発現。戦国時代の武士に崇敬を集めるようになる。 |
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天正10年 (1582年) | | 愛宕神社 (京都府) | | 明智光秀が戦勝祈願のため、愛宕神社に参拝。本能寺攻めをくじ引きで占う(3度の凶、4度目で吉)。 |
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慶長8年 (1603年) | | 愛宕神社 (東京都) | | 徳川家康の命により、江戸に愛宕権現のご分霊が勧請される(将軍地蔵菩薩も同様に祀る)これにより愛宕信仰が全国に更に浸透(多くの神社が、東京の愛宕神社からご分霊を勧請している。そのため、東京の愛宕神社は、京都の総本社と同格の扱いを受ける)。 |
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明治元年 (1861年) | | 愛宕神社 (東京都) | | 明治の神仏分離令によって、将軍地蔵菩薩は、大本山妙心寺に勧進移座し、愛宕神社は、愛宕権現を火防の神として、カグツチを主祭神として、改めて祀る。 |
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因に、延喜式神明帳には、阿多古神社という神社が記載されているが、その比定社には、亀岡愛宕神社と総本社の愛宕神社の両社に何れかとされるが、何れを指しているかはまだ確定出来ていない。 |