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総本社白山比め神社
所在地(〒920-2114)石川県白山市三宮町ニ105-1
系列社白山神社 他
同系神社なし
備考・白山比め神社の系列社は、全国に2700社以上あるとされる。
白山神社基本神
[正式名]菊理媛神(ククリヒメ)
[別名]白山比め神(シラヤマヒメ)

ククリヒメは、実は、古事記・日本書紀の本文に登場せず、日本書紀の一書にわずかに登場する非常に無名の女神となる。しかし、その存在感は非常に大きく、実は、日本書紀には、古事記とは別のストーリーが存在する。それは、伊邪那岐命(イザナギ)が、その妻、伊弉冉命(イザナミ)の死に面し、悲嘆のあまり、黄泉の国までイザナミに会いに行った時のこと、通常の話では、イザナミの腐乱化した姿を見て、イザナミの元を逃れ、両者は、最終的に物別れに終わってしまうのだが、日本書紀の一節には、この時、ククリヒメが仲裁役として、両者の仲をとりもち、仲直りさせるという話がある。これを一説には、巫女やシャーマンの元祖と呼ばれ、口利き、交渉、仲裁の女神とも言われる(聞き入れるという語源が変化したものとも言われる)。また、中には、ククリヒメは、両者が発言する時の唾から生まれ出た女神とも言われる。

ただし、ククリヒメが主祭神として、登場したのは、近世に習合化された結果であり、元々は、白山妙理大権現(シラヤマミョウリダイゴンゲン)という白山の神格化された神が祀られており、その後も仏教的な意味合いの方が強かった。そのため、どのタイミングから、ククリヒメが習合化されたのか、また、その理由は何なのかという点は不明であり、謎も非常に多いが、一説には、このククリヒメという名称も元は、高句麗媛(高句麗の姫)で、泰澄が山頂に祀ったのが、この高句麗媛であるという説も存在する。
白山神社あるある神 白山神社でよくみる神々
白山神社では、ククリヒメを中心に、その仲違いを仲直りさせたイザナギとイザナミの夫婦神を共に祀るケースが多く存在する。そのため、本来は、この3柱で1セットとも言えなくもないが、白山神社では、この3柱の何れかの神のみを祀るケースも少なくなく、同じ系列社でもご祭神の組み合わせが異なるため、多少の注意が必要となってくる。特に、総本社を競う3社の1社のひとつ、平泉寺白山神社などは、他2社と異なり、イザナギのみを祀り、他には、天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)と大己貴尊(オオナムチ)といった全く異なる神を祀っている。

[関係神1]伊邪那岐命(イザナギ)※古事記
伊弉諾尊(イザナギ)※日本書紀
妻のイザナミと共に、神世七代の最後に生まれ、最古の夫婦神とされる。そして、その後、多数の御子神を生み続けるため、日本の神々における直接的な祖神とも言える。そのため、他の神々に見られるような特定の性質を司ることはなく、万物の形成に深く関わる神として、創造神としての側面を併せ持つ。特に、日本の国土を作り出したことから、日本国土形成の神という点で、国家安寧を司るとも言われる。また、この場合、イザナミと1セットの方が確実ではあるが、多くの神を残したという点で、安産や子孫繁栄の神として祀られることも多い。更には、イザナミとの別れのくだりから、人間の寿命が定められたとも伝えられており、その点では、人間の寿命を司る神とも言われ、イザナギが、生命の誕生を司る側に立ったことから、安産祈願、子孫繁栄を司る神と言われる。ただし、ククリヒメが一緒だと、この部分の話はなくなるので、意味が変わると言うこともできなくはない。因に、その名の「イザナ」とは、「誘う」の意味とされる。

[関係神2]伊邪那美命(イザナミ)※古事記
伊弉冉尊(イザナミ)※日本書紀
※[別名]黄泉津大神(ヨモツオオカミ)
こちらは、先のイザナギの妃神で、同じく最古の夫婦神として非常に有名な女神となる。しかし、死後、イザナギと離縁した後は、黄泉の国の主祭神となったため、黄泉の女神としての側面を併せ持つ。その点では、イザナギと同じく、寿命を司る神と言うことができるが、この場合、イザナミは、死を司る側に立っている。この他、その性質としては、イザナギと同じく、万物創造の神としての神格を持つ。

白山神社のご利益
商談成功これは、ククリヒメの交渉の神の側面を示したもので、このご利益は、ククリヒメ単体でも十分意味を持つご利益と言える。このような交渉ごとを上手に導きたいという点では、商談以外のものに活用できるが、恋愛に関しては、後述するが、多少の注意が必要とも言える。

家内安全同じく、これもククリヒメのご神徳と言えるが、やはり争いを仲裁したという点で、家内安全においても平和的な側面からこうしたご利益を強く示すことができる。

恋愛成就こちらは、いわゆる良縁祈願というものであるが、この良縁祈願は、最古の夫婦神という点で、イザナギとイザナミの両神が祀られていれば、その意味は成立すると言える。しかし、実際には、両神は、絶縁状態に陥ってしまうために、多少の懸念が発生することになる。そのため、ここにおけるククリヒメの存在は大きく、両神を取り持ったという点で、この恋愛成就という意味合いでもこの3柱の組み合わせは、非常に重要な意味を持つ。ただし、前項で触れた通り、必ずしも全ての白山神社が、この組み合わせを有しているとは限らないので、予め注意が必要となってくる。

安産祈願こちらの場合は、やはりその意味合いから言って、イザナギとイザナミという最古の夫婦神の存在が重要で、出来れば、両神が祀られて欲しいところではある。祀られていれば、安産祈願の側面のみならず、ここには、子育大願や子孫繁栄などの意味にも通ずることが出来ると言える。

国家泰平こちらは、イザナギとイザナミが、矛を使って、日本の数々の国土を作り出したとされ、その国土の根源神とされる点から、日本国家全体の安寧、安定をもたらすという点で、崇敬されることもある。

※ご利益に関しては、あくまで参考程度にお考え下さい。
白山神社拡大の歴史
元々、白山神社は、白山と呼ばれる日本三名山(他、富士山と立山)を祀る山岳信仰に始まる。そして、それが修験道の聖地として、結びつくことにより、仏教面ともスムーズに習合していっている。そのため、中興期は、愛宕神社など同様、神社というよりは、寺院として浸透していっている。そして、この白山神社振興の最大の特徴は、通常、1拠点1社の流れの中から、その信仰ルートを拡散していくのに対し、当社は、白山を起点にしながらも、その頂上を目指す登山道が、3ルートそれぞれに整備されてしまったため、夫々のルートに社寺が設けられるにつれ、信仰拠点が分散しており、1拠点3社の流れを強めている。そのため、どこを正式な起点と置くは非常に難しい選択となり、一般としては、加賀国一宮で、延喜式神名帳にも記載されている白山比め神社を総本社とするが、江戸時代に起こった3社論争では、平泉寺白山神社が、白山頂上本社の祭祀権を獲得ししている。それは、こうした3社同時スタートという珍しい由緒を持つ白山神社ならではのものと言える。
(1)白山の山岳信仰
白山は霊峰として篤く崇敬され、山岳信仰の観点から信仰がスタートする(白山比め神社の社伝によれば、その創建は、崇神天皇7年(紀元前91年)にまで遡るとされ、後に創建される加賀の白山寺白山本宮は、その奥宮としている)。そして、山頂への登山道が、禅定道(ぜんじょうどう)として、加賀・越前・美濃の三方向から整備されるにつれ、そこが修験道の聖地として信仰を集めるようになる。
(2)山岳信仰拠点としての整備
各3ルートの禅定道に、社堂と呼ばれる宗教施設が整備されていき、白山寺白山本宮(加賀)、長滝寺白山中宮(美濃)と平泉寺白山中宮(越前)という社寺が、各地域の拠点に創建されていく。これにより、白山信仰の信仰拠点が本格的に整備される。因に、全国の白山神社のおよそ半数以上が、長滝寺白山中宮(美濃)からの勧請とされている。
(3)天台宗の末寺化
白山寺白山本宮(加賀)、長滝寺白山中宮(美濃)と平泉寺白山中宮(越前)といった白山信仰の拠点を司る社寺が、近江国の比叡山延暦寺の末寺(末社)となったことで、天台宗信仰が広まるにつれ、各地に勧請されていった。
このように、白山神社は、白山という霊山信仰を軸に、北陸を中心に信仰エリアの拡大をはかっていくことになるのだが、その信仰の在り方は、富士山信仰に近いものがあるとも言える。
崇神天皇7年
(BC91年)
白山比め神社
(石川県)
白山信仰を元に、白山比め神社の元となる古宮が、舟岡山に創始されたとする。

応神天皇28年
(297年)
白山比め神社
(石川県)
白山比め神社の古宮が、手取川沿岸に遷座すると伝えられる。

霊亀2年
(716年)
白山比め神社
(石川県)
白山比め神社の古宮が、さらに、現在の加賀一宮駅周辺に遷座したとされる。

奈良時代
白山
白山の山岳信仰が、修験者による修行の場に発展。霊場としての側面を持つようになる。そして、加賀・越前・美濃の3方向から、山頂に至る登山道(禅定道)が整備される。

養老元年
(717年)
白山
白山を開山したと伝えられる泰澄(たいちょう)が、禅定道に、白山寺白山本宮(加賀)、長滝寺白山中宮(美濃)、平泉寺白山中宮(越前)のそれぞれを創建する。

天暦2年
(853年)
白山神社
(東京都)
加賀国の白山寺白山本宮よりご分霊を勧請し、武蔵国豊島郡本郷元町(現在の文京区本郷1丁目)に白山神社が創建される。

仁寿3年
(948年)
白山比め神社
(石川県)
加賀国の白山比咩神が従三位に叙せられる。

平安時代
(ーーー年)
白山比め神社
(石川県)
加賀の白山比咩神を祀った白山寺白山本宮が、加賀国一宮となる。

平安時代
(ーーー年)
白山神社
(新潟県)
平安時代の中頃、現在の新潟県新潟市に、白山神社が建立されたと伝えられる。

久安3年
(1147年)
白山比め神社
(石川県)
越前側ルートを代表する平泉寺白山中宮が、比叡山延暦寺の山門別院となり、白山七社が結成され、白山寺白山本宮がその統括を担う。しかし、同時に、白山妙理権現が、比叡山にも勧請され、白山神社が日吉大社の摂社扱いとなる。

文明3年
(1471年)
白山
本願寺八世蓮如上人が、吉崎に道場を開き、北陸に浄土真宗を布教していき、これにより白山信仰が衰退し始める。

文明12年
(1480年)
白山比め神社
(石川県)
白山寺白山本宮が、大火によって社殿を焼失してしまう。そのため、社殿を現在地に遷座させる。

寛政8年
(1688年)
白山
白山嶺上の管理権を巡って、3社が対立し、江戸幕府がその仲裁をする。そして、その裁定により、白山頂上本社の祭祀権を平泉寺白山神社が獲得する。

明治元年
(1868年)
白山
神仏分離令が公布され、白山寺白山本宮は、白山比め神社と改称し、長滝寺白山中宮は、長滝白山神社と長滝寺に別れ、平泉寺白山中宮は平泉寺白山神社と改称する。

このように、白山神社は、拡大と衰退を繰り返し、各地に広まっていくのだが、総本社となる白山比め神社の元宮と奥宮がどのタイミングで、統一されたのか今ひとつはっきりしない。