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総本社富士山本宮浅間大社
所在地(〒418-0067)静岡県富士宮市宮町1-1
系列社浅間神社 他
同系神社なし
備考・浅間神社の系列社は、全国に1300社以上あるとされる。
浅間神社基本神
[古事記名]木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤビメ)
[日本書紀名]木花開耶姫(コノハナサクヤビメ)

コノハナサクヤビメは、山の神、大山祇神(オオヤマツミ)の御子神であり、姉神に、岩の神、石長比売(イワナガヒメ)を持つ。そして、夫には、かの天孫降臨で有名な瓊瓊杵尊(にニギ)を持つ。その性質は、花、桜を司る女神とされ、美の象徴という意味でも語られることが多い。

しかし、そもそもコノハナサクヤビメが古事記で登場するのは、ニニギが、九州の高千穂の地に降り立った後に、笠沙(かささ)の岬で、出会うシーンに始まる。つまり、その所縁としては、あくまで九州地方に始まる訳なのだが、何故、遠方の富士山信仰と習合することになったのか、その点のはっきりとしたことは言えないが、元々、コノハナサクヤビメは、富士山の噴火を抑えるために祀られたと言われている。これは、コノハナサクヤビメが、「古事記」で出産に臨むエピソードと関係していると推定される。それは、コノハナサクヤビメが、ニニギと結ばれた後、一夜にして子を身ごもることに始まる。それを知ったニニギは、自身の子と疑い、これに憤慨したコノハナサクヤビメは、その証として、出口のない母屋に火を放ち、そこで、火中出産をやり遂げる。これを、神の子として証明する訳だが、ここで、コノハナサクヤビメには、火・炎に打ち勝つ力を発現させている。こうした一連の出来事が、火防の効果として発展、更には、その父に、山の神の大元締め、オオヤマツミを持つことから、最適と判断された可能性は否定できない。もちろん、この時に、無事出産に至った経緯から、安産祈願の女神としての側面も併せ持っている。
浅間神社あるある神 浅間神社でよくみる神々
浅間神社では、基本、コノハナサクヤビメを祀る神社と考えて良いかもしれないが、中には、その夫であるニニギや父であるオオヤマツミといったコノハナサクヤビメの家族神を祀っている神社も少なくない。この家族的な組み合わせは、八幡神社に近いと言えるかもしれないが、ごく稀に、コノハナサクヤビメの姉神であるイワナガヒメを主祭神におく浅間神社も例外的に存在する。ただ、こちらは、非常に非常に異質で、どちらかと言えば、コノハナサクヤビメと対立軸で語られる場合が多い。

その理由は、その姉神たる石長比売の悲運のエピソードに基づくのだが、古事記では、コノハナサクヤビメがニニギと成婚を果たす際に、父神、オオヤマツミは、ニニギに、その姉神たるイワナガヒメも同時に差し出している(当時は、姉妹婚という風習もあったとも伝えられる)。しかし、美の象徴たる花の女神、コノハナサクヤビメに対し、石・岩の女神、イワナガヒメの容姿は、醜かったとされ、ニニギは、そのまま姉神のみを突き返してしまうというエピソードが存在する(この時、花は繁栄、岩は永遠を表し、ニニギが、イワナガヒメを突き返したことによって、神・天皇の寿命が短くなったとされる)。実は、この時、イワナガヒメは、コノハナサクヤビメに対し、相当の恨みを持っていたとされ、浅間神社の中でも例外的に、このイワナガヒメを祀り、更には、富士山をも禁忌とする神社、並びに地域が存在するのだ。それが、静岡県賀茂郡松崎町にある雲見浅間神社で、ここでは、悲しみに暮れたイワナガヒメが、この地に隠れ住んだとされ、富士という言葉自体が禁句とされてきたという。これは、特例かもしれないが、中には、このような組み合わせによって、大きく意味が変わってしまうこともあるので、若干の注意は必要と言えるかもしれない。

[関係神1]天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命
(アメニギシクニニギシアマツヒコホノニニギ)
※古事記
天饒石国鐃石天津日高彦火瓊瓊杵尊※日本書紀
※[通称]瓊瓊杵尊/瓊々杵尊(ニニギ)
天照大神(アマテラス)の御子神、天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)と高御産巣日神(タカミムスビ)の娘神、栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメ)の間に生まれた御子神で、言い換えれば、アマテラスの孫神という位置づけになる。そして、アマテラスの命を受けて、葦原中国を統治するため、宮崎県の高千穂に降臨したとされる。これは、三種の神器を始め、天の神々が、この地上界に遣わされ、その正統の血筋をこの地に迎えた最初の瞬間とも言える。そして、その性質は、その名が、「豊かで賑わう様」を示すとされ、稲穂を司る神とされる。そのため、農業の神として祀られることが多い。

[関係神2]大山祇神(オオヤマツミ)
※[別記]大山積神大山津見神
※[別名] 和多志大神(ワタシノオオカミ)
こちらは、コノハナサクヤビメの父神で、その名が「大いなる山の神」と示す通り、山の神における総元締的存在と言われる。しかし、その別名、ワタシオオカミとは、海の神を示し、オオヤマツミ大山祇神は、山と海の両方を司る神と言える。一部には、オオヤマツミを金運の神として祀る神社もあり、これは、山と海という食卓の中でもとりわけご馳走となる山の幸、海の幸といった恵みを統括するという点で、豊かさの象徴として、祀られていると考えることも出来る。その点では、山と海両方を司るのは、ある部分では、最強の神と言えるのかもしれない。そして、オオヤマツミは、娘のコノハナサクヤビメが子供を出産された際に、その祝いとして、狭奈田の茂穂で、天甜酒(あめのたむざけ)を造り神々に供げたというエピソードも残っていることから、酒造の神としての側面も併せ持ち、正に、贅沢品の象徴とも言うべき神と言える。また、一部には、軍神、武神として祀られた経緯もあり、その理由は不明だが、山と海という軍事拠点上、重要な位置を占める部分を司る神と考えれば、戦勝祈願における祈念先として、オオヤマツミが祀られる可能性もあり得ると考えられる。

[関係神3]石長比売(イワナガヒメ)※古事記
磐長姫※日本書紀
こちらは前述した通り、コノハナサクヤビメの姉神にあたる。その名の通り、イワナガヒメは、石・岩を司るとされ、その意味は、永遠性を示すとされる。そのため、不老長寿の女神ともされ、基本、コノハナサクヤビメと対立軸で、祀られることの方が多い。

このように、イワナガヒメを除き、多くは、家族神として、ともに祀られることはあるが、この他、そのコノハナサクヤビメの御子神となる、火照命(ホデリ:海幸彦)、火須勢理命(ホスセリ)、火遠理命(ホオリ:山幸彦)などを共に祀るケースも存在する。
浅間神社のご利益
安産祈願コノハナサクヤビメは、火中出産という非常に困難な状況下で、無事子供を出産された経緯から、安産の女神としてよく祀られている。

子育大願コノハナサクヤビメは、3柱の御子神を生んでおり、その内のひとつ、ホオリは、その後も皇祖として、無事、神武天皇に継承していくことから(神武天皇の祖父神にあたる)、子孫繁栄の意味を持つとされ、これには、無事、御子神たちが成長することが出来た証であり、子育大願もコノハナサクヤビメの持つ力の一つとされる。また、出来れば、こうした御子神も一緒に祀られていれば、その意味も大きくなる。また、子孫繁栄という点においては、父神たる大山祇神がともに祀られていても同様のことが言える。

容姿端麗コノハナサクヤビメは、花の女神であることから、美の女神としての側面を併せ持っている。そのため、美しくなりたいという願望に対して、お応え頂けるとのことで、例えば、山梨県の北口本宮浅間神社などでは、「美のお守り」を授かることができる。

火防守護コノハナサクヤビメの火・炎に対する抑止効果は前述した通りで、このため、火防の女神としての側面を併せ持つ。

この他のご利益としては、他のご祭神との組み合わせによって、指摘することができる。
良縁祈願これは、どちらかとい言えば、ニニギが一緒に祀られている場合に、強く作用する。良縁は、基本、男女のカップル神で祀られるケースが多いため、単神よりは、この場合、ニニギがともに祀られる場合にその意味が成立する。

※ご利益に関しては、あくまで参考程度にお考え下さい。
浅間神社拡大の歴史
実は、浅間神社の創始に関しては、非常に解釈が難しい。勿論、その本質的な起源は、富士山の山岳信仰に起因する訳だが、創始に起源にあたる神社の存在が一社に単純に収束されない難しさがここにはある。勿論、基本としては、その総本社を静岡県の富士山本宮浅間大社とするが、この点にも、山梨県側の北口本宮富士浅間神社や、同じく、静岡県の東口本宮冨士浅間神社などもその総本社とする考えもある。これは、ある意味、白山信仰と同じく、富士山を登拝するルートから派生したものと考えられなくもないが、現時点においては、富士山8合目以上登山道などを除く大半の所有権は、富士山本宮浅間大社のものとされていることからも、実質的には富士山本宮浅間大社を総本社と取る傾向にある。

しかし、富士山の存在は、実は、古事記や日本書紀には登場せず、その詳細は非常に謎が多い。しかも、社伝レベルであれば、こうした総本社と呼ばれる神社よりも古い由緒を持った浅間神社も存在する。そのため、各社の年代を時系列的に追っても、整合性が取りにくく、非常に難解となっている。これは、ひとつには、富士山が度々噴火を起こすことから、仮に、こうした神社が一定の由緒を残していたとしても、壊滅的な被害を受けやすいということも、正確な伝聞を残しにくいことがその理由のひとつに挙げられる。

一応、富士山本宮浅間大社を代表とする著名な浅間神社では、日本武尊(ヤマトタケル)の東征を機に、本格的な創始を迎えることが多いが、先に述べた通り、古事記や日本書紀には記されていないことを考えると、ここに何らかの意図が働いているとも見ることができなくもない。ひとまず、代表的な古い浅間神社の流れを簡単に羅列してみる。

・村山浅間神社
・富知六所淺間神社
・山宮浅間神社→富士山本宮浅間大社
・東口本宮冨士浅間神社
・山宮神社→甲斐一宮浅間神社
・冨士御室浅間神社
・北口本宮冨士浅間神社
(1)謎の多い富士山の山岳信仰
浅間神社は、富士山信仰を元にしており、社伝を中心に捉えると、その起源を図る時系列が複雑に入り組んでおり、特定の神社にそって拡散的に派生した経緯を読み取ることが非常に難しい。また、それは、富士山の創始に関する決定的な記述が存在しないことも関わる。
(2)修験道との習合化
富士山も他の山と同様、修験道の聖地のひとつであり、その開祖である役小角(えんのおづの)が、登拝したという伝説があり、その点から、役小角を富士山開山の祖と見る向きもある。そして、久安5年(1149年)に、末代(まつだい)という平安時代の僧が、富士山に登拝し、山頂に経典を埋めたとされ、その埋納経が、浅間大社にも伝えられている(富士山修験道の開祖)。そして、末代は、村山(現在の静岡県富士宮市村山)に、現在の村山浅間神社境内地に大日堂を建立し、ここを中心に、富士山信仰は拡散していくことになる。
(3)富士山信仰の全国化
江戸時代に入ると、富士山信仰は、より組織的になり、富士講(ふじこう)という信仰組織が整備されていくようになる。特に、江戸では多くの富士講が組織され、各地に富士塚が造営されていっている。これは、富士山に登拝できない人に向けたミニチュア富士とも言えるもので、現在でも、都内の浅間神社を探せば、必ずと言っていいほど、富士塚を見ることができる。
このように、浅間神社も山岳信仰に始まり、修験道の力を借りて、拡散、冨士講の組織という流れで、全国に浸透していっている。
孝昭天皇2年
(BC474年)
村山浅間神社
(静岡県)
富士山中腹の水精ケ岳に、村山浅間神社が、創建されたという。

孝昭天皇2年
(BC474年)
富知六所淺間神社
(静岡県)
富士山山腹に、冨知六所淺間神社が、創建されたという。

孝霊天皇時代
(BC200年代)
富士山
(ーーー)
第7代孝霊天皇の時代(紀元前290〜紀元前215年)に、富士山が噴火したという。

垂仁天皇3年
(BC27年)
富士山本宮浅間大社
(静岡県)
第7代孝霊天皇の時代の富士山噴火により、国中が荒廃してしまったことから、第11代垂仁天皇が、その霊威を鎮めるために、浅間大神を富士山麓に祀る(富士山本宮浅間大社)。ただ、この時は、特定の場所に祀ったものではなく、非常に流動的なものだったとする(静岡県側の富士山信仰の最も古い根拠)。

垂仁天皇8年
(BC22年)
山宮神社
(山梨県)
神山の麗に、甲斐の一宮、浅間神社の元になる元宮が、鎮座したとされ、神祭があったとする(山梨県側の富士山信仰の最も古い根拠)。

景行天皇御代
(100年代)
山宮浅間神社
(静岡県)
現在の静岡県富士宮市に、富士山の拝むための祭祀場として、磐座が設けられ、山宮を建立する(富士山本宮浅間大社の元宮的存在となる山宮浅間神社の創始)。

景行天皇御代
(100年代)
山宮浅間神社
(静岡県)
日本武尊が、駿河国で賊徒の計にかかり野火の難に遭遇する。そして、この時に、浅間大神に祈念すると、その難を逃れることができたので、賊徒平定後に、この山宮に浅間大神を祀ったという。

景行天皇40年
(110年)
北口本宮冨士浅間神社
(山梨県)
日本武尊が東方遠征の折に富士山を遥拝し、「富士には北側より登拝するのが良い」として、山梨県側に、祠と鳥居を建てたとされる(北口本宮冨士浅間神社の創建)。

文武天皇3年
(699年)
冨士御室浅間神社
(山梨県)
冨士御室浅間神社の本宮が、藤原義忠によって富士山の二合目に創建される。

大宝元年
(701年)
村山浅間神社
(静岡県)
村山浅間神社が、現在地へ遷座したとされる。

延暦7年
(788年)
北口本宮冨士浅間神社
(山梨県)
甲斐守の紀豊庭(きのとよひろ)が、現在の富士吉田市に、北口本宮冨士浅間神社の社殿を造営したとされる。

延暦19年
(800年)
富士山
(ーーー)
約2年にわたり富士山が噴火する。

延暦21年
(802年)
東口本宮冨士浅間神社
(静岡県)
富士山東麓の噴火に従い、須走に斎場を設け祭事を行い鎮火の祈願を行ったという。これが、富士山須走口登山道を起点とする東口本宮冨士浅間神社の創始とする。

大同元年
(806年)
富知六所淺間神社
(静岡県)
富知六所淺間神社が、富士下方五社(五社浅間)を勧請する際に、それらの首座と定められる。

大同元年
(806年)
富士山本宮浅間大社
(静岡県)
第51代平城天皇の命により、坂上田村麻呂が山宮より、現在地の大宮の地に社殿を造営し、浅間大神を遷座したとされる。

大同2年
(807年)
東口本宮冨士浅間神社
(静岡県)
延暦21年噴火が、祈願により収まったため、鎮火祭の跡地に、東口本宮冨士浅間神社の社殿を造営したとする。

貞観7年
(865年)
甲斐一宮浅間神社
(山梨県)
前年に、富士山の大噴火が起こり、神託により、甲斐の一宮浅間神社が元宮より現在地に潜在し、正式に、浅間神社が創建されるたとする。元宮だった地は、その摂社として、山宮神社が残される。

貞観7年
(865年)
河口浅間神社
(山梨県)
同じく、昨年起こった富士山大噴火を鎮める為に、富士山と対峙する河口の地に富士山の神を祀ったとする。

大永7年
(1527年)
亀戸浅間神社
(東京都)
亀戸浅間神社が創建される。

このように、浅間神社に関わる神社は非常に多岐にわたり、複雑になっている。然も、静岡県と山梨県、両県の主張が更に加わるため、より複雑な様相を呈している。ただ、山梨県側で、重要な位置を占める北口本宮冨士浅間神社の鎮座地は、元々、諏訪の杜と呼ばれ、諏訪神社の神域だったとされ、かつては、浅間神社ではなく、正確には、諏訪神社だったという指摘もされている(境内社に大きい諏訪神社を祀っている)。因に、現在多くの浅間神社では、「浅間」を「せんげん」と呼ぶが、これは仏教の影響と言われており、もともとは、「あさま」と読む。