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金刀比羅宮の起源についてはあまり定かにはなっていないが、象頭山(ぞうずさん)信仰という地方神に始まったとも考えられている。その後、何らかの形で、オオモノヌシや宮毘羅(くびら)と習合していったと考えられているが、この成り立ちについては、大きく2つの説が有力視されている。
ひとつが、オオモノヌシが象頭山で行宮(あんぐう:一時的な滞在施設)を営んだとされ、その跡地に琴平神社を祀られたとするもので、その後、神仏習合がはかられる中で、仏教の宮毘羅と習合していったと言われている。
もう一つが、先ず象頭山にあった真言宗の松尾寺に宮毘羅がその守護神として祀られ、大宝年間(701年〜704年)に修験道で有名な役小角(えんのおづの)が象頭山に登拝し、そこで、護法善神(ごぼうぜんじん)たる金毘羅(クンピーラ)に遭遇したことから、これを金毘羅大権現としたとするもので、こちらは、元から仏教神としての起源に始まる。
いずれにせよ、金刀比羅宮の創建年代は全くもって謎であり、どれほどの歴史があるのか、その具体的な年代は分かっていない。ただ、その創始としては、神社側が、前者の説を採択していることからも優先すべき起源は、前者の琴平神社に始まると考えるべきだろうが、明治時代の神仏分離令が施行されるまでは、象頭山松尾寺金光院と称していたことからも仏教的側面は無視できないものとなっている。 |
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(1) | オオモノヌシの行幸 古くからの言い伝えによると、オオモノヌシが象頭山に行宮(あんぐう)を営み、これを日本経営の本拠地と定め、周辺国を統治していったとされ、その跡地に琴平神社を祀ったとしている。
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(2) | 本地垂迹(ほんじすいじゃく)説 の影響 仏教が輸入されて以降、神仏習合の流れは着々と進んでいったが、それは暗黙値で語られることが多く、神仏の立場を明確に伝えるものはなかった。そこで提唱されたのが、本地垂迹説で、これは、「日本の神は、仏の化身として代理、または、仏に至る過程で発現された」とする考え(日本の神を仏教用にカスタマイズした考え)で、琴平神社もその影響を大きく受けている。因に、この時期、琴平神社は、金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)と呼ばれ、その役割も真言宗の松尾寺の守護寺として、象頭山松尾寺金光院と名乗っていた。
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(3) | 宮比羅(くびら)との習合 本地垂迹説の影響によって、神仏の習合が促進され、仏教の宮比羅(くびら)と習合している。宮比羅は、元々ヒンドゥー教の神、クンピーラに由来すると言われており、ガンジス川に棲むワニを神格化したものと言われている。そのため、クンピーラは、水を司る神、水運の神として、航海安全のご利益を求める動きと連動していったとされる。そして、クンピーラは、仏教に取り入れられ、薬師如来を守護する十二神将の一神となり、宮比羅神将となったとされ、その宮比羅神が讃岐に出現したのが金毘羅神と言われている。なお、宮比羅神だけが独立して信仰されるケースは、他に例がなく、大変珍しいものと言われている。
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(4) | 航海民による信仰拡大 こうした海上交通の守り神的な役割は、当然のことながら、瀬戸内海の船乗りたちの崇敬を集め、その彼らが、全国各地に、金毘羅信仰を広めていったとされる(現在でも海上自衛隊の掃海殉職者慰霊祭が毎年行われているという)。また、この海上交通守護の考えは、元々、琴平山(象頭山)が、海上交通の目安になっていたことも関連していると考えられている。
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(5) | 崇徳天皇の参籠 長寛元年(1163年)に崇徳上皇は、象頭山松尾寺金光院(現在の金刀比羅宮)に参籠している。そして、讃岐国に流され、軟禁生活を送り、長寛2年(1164年)、失意のまま崩御したとされる。その後、崇徳天皇の怨霊化が騒がれ、翌年の永万元年(1165年)に合祀されている。
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(6) | 京極家の崇敬 京極家は、宇多源氏の流れを汲む氏族のひとつであり、室町時代より出雲・隠岐・飛騨の守護を司った名家であった。その京極家は、讃岐金刀比羅宮を崇敬しており、各々の領地、関連施設に金刀比羅神社を勧請していっている。
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(7) | 金毘羅(こんぴら)講の組織 江戸時代中期になると、金毘羅信仰も他の神社と同様、各地で金毘羅講が組織されていった。この「講(こう)」とは、今で言う崇敬会のようなもので、この他代表的なものとして、伊勢講や富士講といったものがある。この動きは庶民の中でかなり浸透しており、伊勢神宮へのお陰参りに次ぐほどの人気だったと言われている。
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金刀比羅宮は、他の神社と比べて、仏教色がかなり強く、その創始においても神道、仏教両面の見方がされていることからも、その影響の強さが伺える。 |
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ーーー (ーーー) | | 金刀比羅宮 (香川県) | | オオモノヌシが行宮(あんぐう)を営んだとされる、その跡地に琴平神社が祀られる。 |
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長寛元年 (1163年) | | 金刀比羅宮 (香川県) | | 崇徳上皇が象頭山松尾寺金光院(現在の金刀比羅宮)に参籠される。 |
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永万元年 (1165年) | | 金刀比羅宮 (香川県) | | 象頭山松尾寺金光院(現在の金刀比羅宮)の相殿に崇徳天皇が合祀される。 |
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永正2年 (1505年) | | 金刀比羅神社 (福島県) | | 威宝院の第三代にあたる弘榮が、讃岐金刀比羅宮より御分霊を勧請し、現在のいわき市内に祀る。 |
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万治3年 (1660年) | | 虎ノ門金刀比羅宮 (東京都) | | 讃岐国の丸亀藩主であった京極高和(きょうごくたかかず)が、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に御分霊を勧請する。 |
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元禄8年 (1695年) | | 安井金比羅宮 (京都府) | | 太秦安井(京都市右京区)にあった蓮華光院が移建された時、その鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮より勧請したオオモノヌシと、源頼政を祀り、安井金比羅宮の原形が造られた。 |
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文化8年 (1811年) | | 丹後金刀比羅神社 (京都府) | | 旧峰山藩主となる京極家は、代々、縁の讃岐金毘羅権現を崇敬しており、7代藩主となる京極高備(きょうごくたかさまさ)は、現在の峰山町泉の地に金刀比羅神社を創建した。 |
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文政2年 (1819年) | | 讃岐金刀比羅宮 (東京都) | | 江戸の板橋市左衛門の邸内祠として、金刀比羅宮が祀られる。 |
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明治元年 (1868年) | | 讃岐金刀比羅宮 (香川県) | | 神仏分離によって象頭山松尾寺金光院は廃されて、神道の神社になり現在の金刀比羅宮へと改称する。 |
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