|
氷川神社は、想像以上に謎に満ちた神社となる。その流れは、氷川という社名に代表とされるように、島根県の簸川郡(ひかわぐん)に由来する。一応、社伝によると、第五代天皇となる孝昭天皇3年(紀元前473年)に、杵築神社(現:出雲大社)よりご分霊を勧請したとしているが、時代的考証が最も難しい時期の話だけに否定的な見解を示す者もいる。ただ、出雲族出身の兄多毛比命(エタモヒ)が武蔵国造の祖となって当社を深く崇敬していたとするなど、出雲との関係性が深いのは確実と言える。ただし、その創建は、見沼の水神信仰に始まったとか、元々は、3社から構成され、ある思惑をもって意図的に配置されているといったミステリアスな説もあり、その創始においては多くの諸説に溢れている。これは、氷川神社という存在が古来から大々的に認められていた訳ではなく、武蔵国一宮というポジションもいつの間にか得ていたその経緯からして謎であり、氷川神社が関東でしか見られない点も含め、武蔵周辺の勢力関係と何らかしらの影響があったのではないかということは類推される。ともかく、創建情報があらゆる角度から飛び交う非常に謎の多い神社となる。 |
|
(1) | 出雲との深い関係1 前述した通り、氷川神社の「氷川」とは、出雲国簸川(ひのかわ)の杵築神社(現:出雲大社)より御分霊を孝昭天皇3年(紀元前473年)に勧請したことに始まるとされる。当初は、見沼の畔に位置し、その水神を祀っていたとする説もあるが、出雲にも龍蛇信仰があり、もしかすると、当初は、龍蛇信仰のつながりから当地に伝搬したと考えられなくもない。一応、「国造本紀」によれば、景行天皇の代に出雲の氏族がスサノオを奉じてこの地に移住したとも伝えられているが、「国造本紀」の信憑性自体が疑問視されていることから、何れも定かなことは言えない。ただし、その創建において、出雲と深い関係にあったのは事実と考えられる。 更には、杵築大社から御分霊を勧請したとする説にも異論があり、杵築大社からの勧請であれば、それはスサノオではなく、オオクニヌシであるべきとし、同じく島根県の雲南市に鎮座する斐伊神社では、スサノオを祭り、その縁起において、武蔵国一宮の氷川神社に御分霊を祀ったと伝えているなど、非常に複雑な解釈にまみれている。
|
|
(2) | 出雲との深い関係2 大宮氷川神社のある当地一帯は、出雲族が開拓した地と伝えられており、成務天皇の時代(131〜190年)に兄多毛比命(エタモヒ)が武蔵国の元を造ったと言われており、そのエタモヒは、大宮氷川神社を深く崇敬したとしているが、このエタモヒも出雲族と言われている。また、中には、このエタモヒを日本武尊(ヤマトタケル)の東征の随行者、武日(タケヒ)と同一視できるのではないかとの指摘もあり、確かに、前天皇、景行天皇の時代に、ヤマトタケルが負傷をし、神託に従って、当社に詣でたことによって、立てるようになったとする逸話(足立という地名の元)を残しており、確かに、タケヒという人物が当社に訪れた可能性は否定できず、非常に興味深い視点である。
|
|
(3) | 奇妙な三氷川1 実は氷川神社は、近世までは、3つの本殿から成り立っていたと言われている。それが、男体社・女体社・簸王子社の3つで、それぞれに現在の祭神であるスサノオ、クシナダヒメ、オオナムチが分かれて祀られていたとしている。この内、男体社は、現在の大宮氷川神社を意味し、女体社は、現在のさいたま市緑区に鎮座する氷川女体神社、最後の簸王子社は、さいたま市見沼区に鎮座する中山神社(かつては、中氷川神社と称していた)を意味するとしており、これは、ほぼ一直線状に等間隔に鎮座しているとされる。
|
|
(4) | 奇妙な三氷川2 氷川神社には、もうひとつ武蔵三氷川と呼ばれる3つの氷川神社の括りが存在する。それが、大宮氷川神社と所沢市にある中氷川神社と東京都西多摩郡奥多摩町の奥氷川神社の三社となる。この三社は、一直線状に均等に配置されている。これを意図的なものとみるか、また、前項の3つの本殿に則したものとみるかは評価も判然としないが、何れもヤマトタケルの東征に関連する由緒を持っており、その点、何らかしらの相関性はあるとみることは出来る。
|
|
(5) | 源頼朝の崇敬 スサノオ信仰の代表的なものに祇園信仰が挙げられるが、祇園信仰が、牛頭天王(ゴズテンノウ)と呼ばれる仏教神との習合の観点から厄除の神として拡大していったのに対し、氷川信仰は、その点とは全くルートが異なり、出雲からの直接型のスサノオ信仰か、自然信仰、龍蛇信仰をベースにしている。そのため、よりスサノオの性質を色濃く反映した崇敬がとられ、特に、八岐大蛇退治に代表とされる武の側面が強調され、それが結果として、武家の人気にも繋がっている。特に、平将門の追討に霊験を現したと伝えられており、源氏からの崇敬を集め、とりわけ、鎌倉幕府を開いた源頼朝の崇敬が篤かったとしている(社殿を再建を命じ社領3000貫を寄進)。この結果、氷川神社は、武蔵国中に広がっていった。
|
|
(6) | 武蔵国総鎮守・勅祭社 氷川神社が武蔵国一宮となった経緯は不明であり、かつては、現在の東京都多摩市に鎮座する小野神社が一宮とされていた。その後、中世後期以降は、武蔵国一宮として、権勢を誇り、明治時代に至っては、武蔵国総鎮守・勅祭社と定められ、明治天皇から崇敬も篤かったとされる。
|
|
このように、氷川神社は、非常に多くの謎に包まれたミステリアスな神社と言えるかもしれないが、出雲との相関性が深いことは特筆すべきポイントと考えられる。 |
|
孝昭天皇3年 (BC473年) | | 大宮氷川神社 (埼玉県) | | 社伝により、杵築神社(現:出雲大社)からご分霊を勧請したとされる。 |
|
崇神天皇2年 (BC95年) | | 中山神社 (埼玉県) | | 社伝により、杵築神社(現:出雲大社)からご分霊を勧請したとされる。 |
|
崇神天皇の代 (BC97〜29年) | | 氷川女体神社 (埼玉県) | | 社伝により、杵築神社(現:出雲大社)からご分霊を勧請したとされる。 |
|
崇神天皇の代 (BC97〜29年) | | 中氷川神社 (埼玉県) | | 大宮氷川神社より御分霊を勧請したと伝えられる。 |
|
景行天皇の代 (71〜130年) | | 大宮氷川神社 (埼玉県) | | 出雲の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したとも伝えられる(国造本紀)。 |
|
景行天皇の代 (71〜130年) | | 大宮氷川神社 (埼玉県) | | ヤマトタケルが東征の際に負傷し、神託(夢枕に現れた老人の教え)に従って当社へ詣でたところ、立てるようになったという言い伝えが残される。 |
|
景行天皇の代 (71〜130年) | | 奥氷川神社 (埼玉県) | | ヤマトタケルが東征の際に祀ったとされる。 |
|
成務天皇の代 (131〜190年) | | 大宮氷川神社 (埼玉県) | | 兄多毛比命(エタモヒ)が当社を篤く崇敬したという伝承が残る。 |
|
欽明天皇2年 (533年) | | 川越氷川神社 (埼玉県) | | 入間川で夜な夜な光るものがあり、これを氷川神の霊光だと捉え、当地に氷川神社を勧請したと伝えられる。 |
|
貞観2年 (860年) | | 奥氷川神社 (埼玉県) | | 无邪志国造の出雲族が「奥氷川大明神」として再興したと伝えられる。 |
|
天歴5年 (942年) | | 麻布氷川神社 (東京都) | | 源経基朝臣が勅命を受け、天慶の乱(平将門の乱)を平定するため東征した時 、武蔵国豊島郡谷盛庄浅布(むさしのくにとしまぐんやもりのしょうあざぶ)冠の松(現麻布一本松の地)に境内二千余坪を勧請したとされる。 |
|
天歴5年 (951年) | | 赤坂氷川神社 (東京都) | | 蓮林僧正が霊夢を見て、現在の赤坂四丁目のあたりに氷川神社を奉斎したとする。 |
|
治承4年 (1180年) | | 大宮氷川神社 (埼玉県) | | 源頼朝が土肥実平に命じ社殿を再建して社領3000貫を寄進する。 |
|
建久8年 (1197年) | | 大宮氷川神社 (埼玉県) | | 源頼朝が神馬神剣を奉納する。 |
|
明治元年 (1868年) | | 大宮氷川神社 (埼玉県) | | 武蔵国総鎮守・勅祭社と定められる。 |
|
このように、氷川神社は、関東を中心に広がりを見せており、もう一つの特筆すべきポイントとして、仏教との習合を見せずに存在してきたことは非常に珍しいとも言える。 |
|
|
|