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総本社大宮氷川神社
所在地(〒330-0803)埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407
系列社氷川神社 他
同系神社素戔嗚尊(スサノオ)を主祭神としてみた場合に限り
八坂神社/須佐神社/須賀神社/廣峯神社 など
備考・氷川神社の系列社は、全国に280社以上あるとされる。
・基本的に氷川神社は、関東地方のみの存在となる(一部例外あり)。
氷川神社基本神
[古事記]建速須佐之男命(タケハヤスサノオ)
[日本書記]素戔嗚尊/素戔男尊(スサノオ)

スサノオは、天照大神(アマテラス)、月読命(ツクヨミ)と共に三貴神のひとつに数えられる神道を代表する神様のひとつとなる。スサノオは、二つの性格面を有していると言われ、その一つが、天岩戸伝承の引き金とされたスサノオの乱暴狼藉ぶりで、荒ぶる神として知られている。特に、父神、伊邪那岐神(イザナギ)の禊ぎによって誕生後、海の支配を任されるものの、母神への寂しさから悲嘆にくれていた際に、その子供のような悲しみの感情が海を荒れさせ、暴風雨を招き、地を荒廃させたこともあり、この性質から、スサノオを暴風雨の神としてみる向きもある。そして、もう一つの側面が、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治における英雄的な側面で、一部には、スサノオの最大の特徴をその善と悪の二面性とみる向きも強い。
氷川神社あるある神 氷川神社でよくみる神々
氷川神社で、スサノオと共によくみられる神さまの代表として挙げられるのが、その妃神である櫛名田比売(クシナダヒメ)である。そして、氷川神社では、この一対の組み合わせをもって、縁結びとなすところが多い。そして、もう一つ、大宮氷川神社にも祀られ、他でも稀にみられるケースとして、スサノオの6代子孫にあたる大己貴神(オオナムチ)が一緒に祀られるケースがある。

[関係神1]櫛名田比売(クシナダヒメ)※古事記
奇稲田姫(クシナダヒメ)※日本書紀
クシナダヒメは、八岐大蛇退治で、スサノオに救われる女神となる。その性質は、その名の示す通り、奇し稲田(くしいなだ)姫とされ、稲田の女神と解釈されている。また、櫛(くし)の字を用いられること、実際、古事記では、櫛に変化をしているところから、櫛を挿した巫女のことを示しているのではないかとの説もある。

[関係神2]大己貴命(オオナムチ)
※[別記]大穴牟遅神・大穴持命(オオアナモチ)
こちらは、出雲で有名な大国主命(オオクニヌシ)の若い頃の名前であり、スサノオの6代後の子孫となる。元々、氷川神社は、出雲族の末裔と深い関係にあるため、間接的に出雲大社と深い関係にある。このため、オオナムチが祀られることにも一定の理があるのだが、氷川神社では、結果として、子孫を共に祀る形になることから、子孫繁栄や家長継続といった意味に転じることがある。
この他詳細は、日枝神社の大己貴命の項目参照。

この他、非常に稀なケースとして、クシナダヒメの両親神である脚摩乳命(アシナヅチ)と手摩乳命(テナヅチ)が、同じく埼玉県の川越氷川神社では確認されている。
氷川神社のご利益
武勇長久やはり、氷川神社におけるスサノオの御神徳は、武家に信奉されてきた経緯もあり、やはり一番最初に挙げられるご利益としては、武運が挙げられる。それは、八岐大蛇を代表とする戦に勝利した側面からもその傾向が強く伺える。そのため、勝負事に対して、強い御神徳を求めることができると言える。

厄除こちらはどちらかと言えば、八坂神社などの祇園信仰におけるスサノオの役割として認められるものとなるが、一応、暴風雨の神として、ケガレを払い除けるという考えのもと、厄払もスサノオ信仰のひとつの在り方として、指摘できる。

この他のご利益としては、他のご祭神との組み合わせによって、幾つかのご利益を指摘することができる。
恋愛成就こちらは、いわゆる妃神となるクシナダヒメが共に祀られて初めて機能する。縁結びの基本は、夫婦といった男女一対によって認められることが多いため、これもその典型となる(必ずしも全ての氷川神社でクシナダヒメが祀られているとは限らないので要注意)。因に、氷川神社の中でとりわけ縁結びに優れている神社として、川越氷川神社が挙げられるが、それは、クシナダヒメの両親神が祀られている点で、男女の組み合わせが二組になることからその同様の意味を強めている。更に、クシナダヒメが祀られていれば、その性質から商売繁盛のご利益を求めることができるようになる。

子孫繁栄こちらの場合は、逆に子孫にあたるオオナムチが共に祀られる場合に認められるご利益であり、これも先ほどの恋愛成就と同様、その組み合わせをきちんと見極める必要がある。また、蛇足ではあるが、オオナムチが一緒に祀られているようであれば、その場合、商売繁盛や病気平癒、縁結びといったご利益を求めることが出来る。

※ご利益に関しては、あくまで参考程度にお考え下さい。
氷川神社拡大の歴史
氷川神社は、想像以上に謎に満ちた神社となる。その流れは、氷川という社名に代表とされるように、島根県の簸川郡(ひかわぐん)に由来する。一応、社伝によると、第五代天皇となる孝昭天皇3年(紀元前473年)に、杵築神社(現:出雲大社)よりご分霊を勧請したとしているが、時代的考証が最も難しい時期の話だけに否定的な見解を示す者もいる。ただ、出雲族出身の兄多毛比命(エタモヒ)が武蔵国造の祖となって当社を深く崇敬していたとするなど、出雲との関係性が深いのは確実と言える。ただし、その創建は、見沼の水神信仰に始まったとか、元々は、3社から構成され、ある思惑をもって意図的に配置されているといったミステリアスな説もあり、その創始においては多くの諸説に溢れている。これは、氷川神社という存在が古来から大々的に認められていた訳ではなく、武蔵国一宮というポジションもいつの間にか得ていたその経緯からして謎であり、氷川神社が関東でしか見られない点も含め、武蔵周辺の勢力関係と何らかしらの影響があったのではないかということは類推される。ともかく、創建情報があらゆる角度から飛び交う非常に謎の多い神社となる。
(1)出雲との深い関係1
前述した通り、氷川神社の「氷川」とは、出雲国簸川(ひのかわ)の杵築神社(現:出雲大社)より御分霊を孝昭天皇3年(紀元前473年)に勧請したことに始まるとされる。当初は、見沼の畔に位置し、その水神を祀っていたとする説もあるが、出雲にも龍蛇信仰があり、もしかすると、当初は、龍蛇信仰のつながりから当地に伝搬したと考えられなくもない。一応、「国造本紀」によれば、景行天皇の代に出雲の氏族がスサノオを奉じてこの地に移住したとも伝えられているが、「国造本紀」の信憑性自体が疑問視されていることから、何れも定かなことは言えない。ただし、その創建において、出雲と深い関係にあったのは事実と考えられる。 更には、杵築大社から御分霊を勧請したとする説にも異論があり、杵築大社からの勧請であれば、それはスサノオではなく、オオクニヌシであるべきとし、同じく島根県の雲南市に鎮座する斐伊神社では、スサノオを祭り、その縁起において、武蔵国一宮の氷川神社に御分霊を祀ったと伝えているなど、非常に複雑な解釈にまみれている。
(2)出雲との深い関係2
大宮氷川神社のある当地一帯は、出雲族が開拓した地と伝えられており、成務天皇の時代(131〜190年)に兄多毛比命(エタモヒ)が武蔵国の元を造ったと言われており、そのエタモヒは、大宮氷川神社を深く崇敬したとしているが、このエタモヒも出雲族と言われている。また、中には、このエタモヒを日本武尊(ヤマトタケル)の東征の随行者、武日(タケヒ)と同一視できるのではないかとの指摘もあり、確かに、前天皇、景行天皇の時代に、ヤマトタケルが負傷をし、神託に従って、当社に詣でたことによって、立てるようになったとする逸話(足立という地名の元)を残しており、確かに、タケヒという人物が当社に訪れた可能性は否定できず、非常に興味深い視点である。
(3)奇妙な三氷川1
実は氷川神社は、近世までは、3つの本殿から成り立っていたと言われている。それが、男体社・女体社・簸王子社の3つで、それぞれに現在の祭神であるスサノオ、クシナダヒメ、オオナムチが分かれて祀られていたとしている。この内、男体社は、現在の大宮氷川神社を意味し、女体社は、現在のさいたま市緑区に鎮座する氷川女体神社、最後の簸王子社は、さいたま市見沼区に鎮座する中山神社(かつては、中氷川神社と称していた)を意味するとしており、これは、ほぼ一直線状に等間隔に鎮座しているとされる。
(4)奇妙な三氷川2
氷川神社には、もうひとつ武蔵三氷川と呼ばれる3つの氷川神社の括りが存在する。それが、大宮氷川神社と所沢市にある中氷川神社と東京都西多摩郡奥多摩町の奥氷川神社の三社となる。この三社は、一直線状に均等に配置されている。これを意図的なものとみるか、また、前項の3つの本殿に則したものとみるかは評価も判然としないが、何れもヤマトタケルの東征に関連する由緒を持っており、その点、何らかしらの相関性はあるとみることは出来る。
(5)源頼朝の崇敬
スサノオ信仰の代表的なものに祇園信仰が挙げられるが、祇園信仰が、牛頭天王(ゴズテンノウ)と呼ばれる仏教神との習合の観点から厄除の神として拡大していったのに対し、氷川信仰は、その点とは全くルートが異なり、出雲からの直接型のスサノオ信仰か、自然信仰、龍蛇信仰をベースにしている。そのため、よりスサノオの性質を色濃く反映した崇敬がとられ、特に、八岐大蛇退治に代表とされる武の側面が強調され、それが結果として、武家の人気にも繋がっている。特に、平将門の追討に霊験を現したと伝えられており、源氏からの崇敬を集め、とりわけ、鎌倉幕府を開いた源頼朝の崇敬が篤かったとしている(社殿を再建を命じ社領3000貫を寄進)。この結果、氷川神社は、武蔵国中に広がっていった。
(6)武蔵国総鎮守・勅祭社
氷川神社が武蔵国一宮となった経緯は不明であり、かつては、現在の東京都多摩市に鎮座する小野神社が一宮とされていた。その後、中世後期以降は、武蔵国一宮として、権勢を誇り、明治時代に至っては、武蔵国総鎮守・勅祭社と定められ、明治天皇から崇敬も篤かったとされる。
このように、氷川神社は、非常に多くの謎に包まれたミステリアスな神社と言えるかもしれないが、出雲との相関性が深いことは特筆すべきポイントと考えられる。
孝昭天皇3年
(BC473年)
大宮氷川神社
(埼玉県)
社伝により、杵築神社(現:出雲大社)からご分霊を勧請したとされる。

崇神天皇2年
(BC95年)
中山神社
(埼玉県)
社伝により、杵築神社(現:出雲大社)からご分霊を勧請したとされる。

崇神天皇の代
(BC97〜29年)
氷川女体神社
(埼玉県)
社伝により、杵築神社(現:出雲大社)からご分霊を勧請したとされる。

崇神天皇の代
(BC97〜29年)
中氷川神社
(埼玉県)
大宮氷川神社より御分霊を勧請したと伝えられる。

景行天皇の代
(71〜130年)
大宮氷川神社
(埼玉県)
出雲の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したとも伝えられる(国造本紀)。

景行天皇の代
(71〜130年)
大宮氷川神社
(埼玉県)
ヤマトタケルが東征の際に負傷し、神託(夢枕に現れた老人の教え)に従って当社へ詣でたところ、立てるようになったという言い伝えが残される。

景行天皇の代
(71〜130年)
奥氷川神社
(埼玉県)
ヤマトタケルが東征の際に祀ったとされる。

成務天皇の代
(131〜190年)
大宮氷川神社
(埼玉県)
兄多毛比命(エタモヒ)が当社を篤く崇敬したという伝承が残る。

欽明天皇2年
(533年)
川越氷川神社
(埼玉県)
入間川で夜な夜な光るものがあり、これを氷川神の霊光だと捉え、当地に氷川神社を勧請したと伝えられる。

貞観2年
(860年)
奥氷川神社
(埼玉県)
无邪志国造の出雲族が「奥氷川大明神」として再興したと伝えられる。

天歴5年
(942年)
麻布氷川神社
(東京都)
源経基朝臣が勅命を受け、天慶の乱(平将門の乱)を平定するため東征した時 、武蔵国豊島郡谷盛庄浅布(むさしのくにとしまぐんやもりのしょうあざぶ)冠の松(現麻布一本松の地)に境内二千余坪を勧請したとされる。

天歴5年
(951年)
赤坂氷川神社
(東京都)
蓮林僧正が霊夢を見て、現在の赤坂四丁目のあたりに氷川神社を奉斎したとする。

治承4年
(1180年)
大宮氷川神社
(埼玉県)
源頼朝が土肥実平に命じ社殿を再建して社領3000貫を寄進する。

建久8年
(1197年)
大宮氷川神社
(埼玉県)
源頼朝が神馬神剣を奉納する。

明治元年
(1868年)
大宮氷川神社
(埼玉県)
武蔵国総鎮守・勅祭社と定められる。

このように、氷川神社は、関東を中心に広がりを見せており、もう一つの特筆すべきポイントとして、仏教との習合を見せずに存在してきたことは非常に珍しいとも言える。