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「人生うまくいかないときは水道の蛇口をひねれ」

『インスタント沼』における電球のことばである。そういう題名の映画でそういう名前の登場人物がそういうポリシーを述べているのだ。

電球は実際に蛇口をひねることで、どうということのない日常にスリルを生み出す。それを体験したジリ貧OLにして主人公にして電球の娘(?)・沈丁花ハナメもまた、ある重要な局面で、実際に水道の蛇口をひねる。そして奇跡は訪れる。そんな映画だ。

「フフフフフ。人間落ち込んだりなんかしたときには、ひねるといいかもしれませんねえ…あふれたらヤバイけど、ギリギリのところまでで帰ってくるというスリル。それを肉体を使って試してみる高揚感はありますよね」

白熱球をソケットから抜き、ひっくり返して正面から見たときのような髪の生え際をした骨董屋の主人、それが電球である。ヒッピーの時代から勝手気ままに適当に生きてきた男。風間杜夫が、実際に生え際を剃って演じた。

「脚本を読んでもワケがわかんなかった。でも、せっかく三木(聡)監督がもう還暦にならんとするオレに声をかけてくれて、ワケわかんない世界に飛び込むチャンスをくれたんだから、と。それと、ぜひ映像化したものを観てみたいと思ったんです。このくだらないギャグの集積と、ファンタジー的なあたたかさを感じて。いや、だってなんとなく面白そうだったから(笑)」

で、やってみたら「とても楽しかった」。完成した作品を観たら「監督のメッセージが作品にあふれてるなと、観た人がなんとなく“落ち込んでる場合じゃねえや”って気持ちになるよねえ」。

電球というキャラクターもうさんくさくて自由でとてもチャーミングに仕上がっていた。仕事はあまり神経質に選ばない。「やっといたらきっといいよなあ」という勘。これが結構当たる。

「8〜9割の確率で(笑)。演劇でも、何年か前に『阿佐ヶ谷スパイダース』の長塚圭史くんに声をかけられて『LAST SHOW』という作品に出ました。あれもね最初は“なんだコレ!?”と思ったんですけどね…永作博美ちゃんの腹から出てきた赤ん坊にオレ、説教されるんです。やってみたら面白かった。昨年、岩松 了さんに声をかけていただいた『恋する妊婦』。これも従来の演劇から比べるとおおよそ演劇的ではない作品で、面白かった! 若くて才能のある人や新しいセンスを実現したいと思っている人たちはいっぱいいて、誘われたから飛び込むことができたわけで」

12年ほど前から始めて、シリーズ化されたひとり芝居の楽屋である。海外にもポンと出かけていって演じることもある。落語の高座にも上がる。13年前に『すててこてこてこ』という舞台で落語家を演じたのをきっかけにハマり、高座はこの3年でも100カ所以上。さらには新派の芝居にも出る。まさに、いろんなところに飛び込みまくる。

「でもね、一時は僕、自分に飽きちゃってたんです。俳優・風間杜夫を“つまんねえな、この役者”って思っちゃうようになってたんですよ」

40歳を迎えたころの話。それは、俳優としてのブレイクと表裏一体なのだった。

有名な話だが、子役出身。

8歳の時に児童劇団に入り、メキメキ頭角を現す。時代劇映画にたくさん出演し、「将来はチャンバラ映画の主役になろうと思っていました」。

中学生で学校が面白くなり、学園紛争の嵐に見舞われた高校時代に演劇にハマり、大学までの一貫校だったにもかかわらず、一浪して早稲田の二部へ。

「『自由舞台』という、早稲田の劇団に入りたかったからです。人気者とかスターという尺度ではなく、舞台俳優にこそやる価値があると思うようになっていました。学園紛争で、みんなが生き方の選択を余儀なくされるなか、役者になることを決めていた僕が到達したのがそこだったんですね」

入学後ほどなく『自由舞台』は解散し、新たに入った『俳優小劇場養成所』も、内紛に巻き込まれて中退。71年に、その仲間たち(大竹まこと、斉木しげる、きたろうたちがいた)と『表現劇場』を結成した。唐十郎が紅テントで興行を行い、寺山修司の『天井桟敷』が一世を風靡した、アングラ全盛のころである。

「みんなで話したんですよ。バイトはデパートの内装とかラーメン屋の出前持ち、表現に関わる仕事がせいぜいぬいぐるみショー…オレたちはこれじゃいかんだろう、積極的にTVとか映画に売り込んでいくべきだろう、と」

それで劇団員の宣伝用アルバムを何十冊も作り、あらゆるツテをたどって配りまくった。そのとき唯一声がかかったのが、日活ロマンポルノだった。

「僕が先陣を切っていきました。子役の経験があるから、映像の演技がわかっていたんでしょうね。1回出たら矢継ぎ早にオファーが来て…」

その後、現代制作舎というプロダクションに所属。個性的な小劇場の俳優たちを映画やTVに売り込もうという情熱を持ったマネージャーから声がかかった。74年、初めてのドラマ。

「NHK大河ドラマ『勝海舟』でした。幕府方の若い侍役で、『貴様こそ獅子身中の虫だ』って抜刀して海舟に斬りかかるんだけど止められて、その場で割腹して果てるという。これで結構ちょっと世間に認められて、翌年『娘たちの四季』という中野良子主演のドラマで、彼女と恋をする自閉症の青年の役をいただいたんです」

もちろん演劇の方も継続していて、75年にオファーを受けて『出発』という作品に客演する。これを書いたのがつかこうへい。風間の1歳年長で、73年に『熱海殺人事件』で、岸田國士戯曲賞を受賞、翌年には自らの劇団を立ち上げ、演劇界の風雲児となっていた。

77年、風間杜夫はつかこうへいの劇団にわらじを預けることになる。つかが、風間に「芝居の垢を落としてやる」と申し出たからだ。

「僕ね、芝居に関してあんまり自我みたいなものがないんですよね。『出発』のとき、実はつかさんのことも知らなかった。で、戯曲集読んでみたらセリフが面白くて。稽古場で初めて顔を合わせたのかな…確かな意志とか目的があったわけじゃなくて、積み上げてきたわけでもなくて、なんか面白そうだなと思っていくと何かがあっただけ。うん、結構無駄がないな(笑)。ロマンポルノにしてもそうですよ、面白そうだからやってみると面白かった」

『広島に原爆を落とす日』『熱海殺人事件』『蒲田行進曲』…つかこうへいの芝居はブームを起こし、風間杜夫はその“顔”として演劇ファンの間で名声を得た。いまはなき情報誌『シティロード』演劇部門の俳優ベストテンでは80〜82年の3年連続第1位に選ばれた。主役の銀ちゃんを演じた『蒲田行進曲』は深作欣二のメガホンで映画化され、大ヒット。翌年にはTVドラマ『スチュワーデス物語』の教官役を演じる。銀ちゃんは往年の映画スターでカリスマ、コミカルな一面もある。そして教官の真摯で影を負ったキャラクター。風間杜夫自身はハンサムで演技力も抜群。オファーが殺到、人気も爆発。

そして風間杜夫、飽きるのである。

「スターのお仲間入りですから(笑)。そうするとね、それまでやってたヘンな役が来なくなっちゃうんですね。カッコいい刑事とか銭形平次になっちゃうんだから…このオレが(笑)。ホントは犯人の方をやりたかったのに、取り締まる方になっちゃうわけですよ。映像の世界…とくにテレビでは、あるイメージで仕事が来ていた。それを徐々に“こなしてる”ような感じになって」 

ブームはいずれ去ると知りながらも、行き着くところまで行くしかなった。そして徐々に“舞台に本腰を入れよう”と思うようになった ― そっちの方がなんだか面白そうだから。

そこから、いろんなことに飛び込む今に至る。“甘いマスクの時代劇俳優”とか“大物舞台役者”というイメージが後付けなのである。

「僕はうまくいい人と出会ってきてますね。出会いの運の強さは人に誇れると思う。なかなかここまで調子よく、いい人といい作品には出会えません」

そしてイタズラっぽく微笑む。

「もうひとつ、僕のエラさは“反省する”という点(笑)。去年作った二本立てのひとり芝居をNHKがテレビで流してくれたんですが、『ヤバイ!』と思いましたね。こんなつもりでやってるのが“こんなつもり”になってないし、改善の余地をいろいろ発見するわけです。そういう繰り返しを、とくにひとり芝居の場合はこころがけてるんです。なんたって自分を面白がりたいと思って役者を選んだんですから、自分で自分を面白がれなくなったときが悲惨でしょ。僕はそういうのをなんとかうまく克服してきたなと思います」

ビシッと言いきって、もうひと笑み。

「つい4〜5日前に還暦になったんですが、まだまだこれから風間杜夫で遊ぼうという気持ちになっていて。“まだまだ俳優・風間杜夫は進化する”と思ってます…と、いつも思ってるのが、僕のすごいところ…えー、これ、ちゃんと書いといてくださいね(笑)」