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今回は、東京十社巡り企画の第一弾として、東京は北区王子にある、王子神社を訪れました。当社宮司である八木光重氏は、より多くの方に、神社を知って貰おうという神社人の活動を理解いただき、いろいろと王子神社のことを教えて頂きました。

王子神社の由来

当社は、元亨2年(1322年)、鎌倉時代後期、後醍醐天皇の時代、当時の領主豊島氏が、紀州から熊野権現を勧請したのを起源としています。豊島氏は、現在の豊島区、北区、板橋区、練馬区あたりまでを治めていた豪族で、当時熊野権現を信仰していました。その為、紀伊の国から、熊野権現を勧請し、東京に多くの熊野神社を設けました。その中で最大のものが王子神社といわれています。

ただし、記録として残っているのが、1322年からであって、それ以前から、源義家公が奥州征伐の帰りに、戦死した兵士の魂をなぐさめた祠らしきものがあったとの言い伝えが残っており、その祠が、王子神社の前身であろうとも言われています。

徳川家崇敬の神社?

1478年には、豊島氏が太田道灌によって滅ぼされて以来、文献が残っていないのですが、江戸時代になると、徳川家の崇敬を受けるようになりました。徳川家康公は、社領200石を寄進し、王子神社を、将軍家祈願所と定め、三代目将軍、家光公の時代には、春日局が家光が将軍になれるように王子神社に祈願したところ、めでたく将軍になれたので、槍を百本奉納したとされ、それが当社の子育て大願の言われにも関係しています。残念ながら、春日局の奉納した槍は、先の大戦で焼失してしまったそうですが、先日、春日局の奉納した槍を30本持っている!という偽物騒ぎがあったとか(笑)。

また、徳川家光公も、社殿を造営したほか、林羅山に命じ、歴史をまとめた縁起絵巻を奉納しました。この絵巻は、国学者の間では、教科書のようなもので、たくさん模写されたそうです。この絵巻も先の大戦で焼失してしまったので、現在は模写しか残っておりませんが、模写版は、飛鳥山公園の隣にある、紙の博物館に展示されているそうです。当社にも、模写した絵巻は残っているそうですが、「保存状態が悪く、広げると壊れそうなので…」触れないようにしています。(笑)

その後、八代将軍、吉宗公は、飛鳥山を寄進されました。王子権現と飛鳥山の花見は江戸の名所でして、江戸時代、王子は、江戸庶民の遊楽の地でした。江戸から王子神社、飛鳥山まで歩いてきて、お弁当食べて帰ると、一日でちょうど往復できる、江戸庶民のハイキングコースのようなものだったようです。「(王子神社近くのお寺)正受院の本堂でお弁当を食べて…という記録も残っているそうですよ。今だったら、勝手に本堂に上がったら大変なことになってしまいますが、大らかな時代だったのですね。

このように、王子神社は、江戸後期には、相当広い領地だったようですが、明治初期の上知令によって、飛鳥山などは社領地は、収容され、現在に至っています。当時のままだったら、相当な土地持ちだったはずなのですが(笑)


東京十社について

東京十社は、東京を鎮護する目的で設置された神社ですが、その位置を見てみると、実は、東京をぐるっと囲んでいるわけではありません。これは非常に不思議で、あくまでも私見ですが、江戸時代の古地図と、現在の地図とを見比べてみると、東京の土地は、もっとえぐられているんです。つまり、東京十社は、准勅祭社制定当時の東京を囲んでいるのではないかと思うんです。例えば、南の品川神社は、品川宿で有名ですが、東海道の最初の宿場町です。つまるところ、東京の南端といえます。そして、富岡八幡宮は、昔は瀬にあったと言われていますから、富岡八幡以東は海、亀戸天神の以東は、見渡す限り畑が広がっていて、富岡八幡宮、亀戸天神以東には、ほとんど人は住んでいなかったと考えられるのです。そして、北端である王子神社も、本郷通りは、歴史のある街道ですが、当時の街道は、王子で終っていて、日光方面への道が王子でつながっていたそうで、東京の北端だったと言ってよいでしょうからね。まぁ、あくまで仮説ですが。

熊野神社と王子神社

そう言えば、王子神社の起源は、熊野権現の勧請とありましたが、なぜ、熊野神社ではなく、王子神社なのでしょうか?
通常、氷川神社を勧請すれば氷川神社、八幡神社を勧請すれば八幡神社になり、本来、王子神社も、熊野神社を勧請したなら熊野神社となるのですが、実は東京で王子神社を名乗っているのは、当社だけなんです。勿論、この王子の地名は、当社にちなんで付けられたものですから、「王子」という地名は後から付いているのです。まぁ、京王線の「明大前駅」や、東武線の「東武動物公園駅」のようなものです。

そして、当社の社名は、若宮信仰が関係します。若宮信仰とは、神様の子供(の神様)をお祭りする信仰のことですが、世界遺産にもなった熊野古道には、九十九王子と呼ばれる無数の王子の神様が道々祀られ、かつては、熊野権現の子供の神様をお祀りする風習があったようです。これは、一種の若宮信仰と言ってよいと思います。若宮信仰は、新しい神の力の発現によって、子子孫孫、永続的な繁栄を期するものです。そして、王子神社は、熊野権現を勧請した際、熊野権現の子供の神様、若一王子宮として奏斎したため、熊野神社ではなく、王子神社の名称が起こったのです。
田楽について

当社の目玉行事と言えば、毎年8月に行われる田楽舞奉納ですね。戦前の王子神社は、今の参道の真ん中あたりに、四方から見物できる舞殿があったそうですが、当時の舞殿は、本殿や拝殿よりも大きく、舞殿でが有名な神社だったそうです。そもそも、田楽とは、伝統芸能としては、猿楽に負けて、 どちらかというとマイナーな芸能なのですが、能の前身である猿楽が、歌と踊りのミュージカルだとすると、田楽は、舞が中心の芸能でして、当社では、その田楽舞を奉納するのが伝統です。

当社には舞殿があり、田楽舞を奉納するのに適した神社だったので、王子神社のお祭は、江戸の祭には珍しいお神輿のない田楽舞を楽しむ(奉納する)お祭でした。でも、お神輿の代わりに「舞」なんて、上品だな〜なんて思っていたら、とんでもない!田楽舞では、最後に舞妓がかぶっていた花笠を投げるのですが、縁起ものである、この花笠を奪い合う「喧嘩祭り」として有名だったとそうですよ(笑)。もちろん、現在はそんなことはありませんから、ご安心ください(笑)。ある意味、神輿が舞に代わっても、どうやら、江戸庶民の気性の激しさに、変わりはなかったということのようですね。
最後に・・・、

当社では、開運のご神徳を授けるとして、「御槍」が授与されます。なぜ、「御槍」なのか、ここのところのいわれについては、今回、時間の都合でお聞きできませんでしたが、昔から、王子神社のお守りといえば、「御槍」だったということです。春日局が百本の槍を奉納したのは、そういう理由です。

そして、王子神社の紋は、三つ巴。巴は、矢を射る時の「ゆがけ」を表しているといわれています。三つ巴の紋は、武士が信仰した神社には、多い紋です。お稲荷様には、稲穂の紋があったり、天神様には、梅だったり、保護した大名の家紋が、神社の紋になっていたり、紋ひとつとっても、そこにはその土地の歴史や文化と、密接な関わり合いがあり紋から神社を見てみるのも、面白いものです。

そんな王子神社は、子育大願や安産祈願、開運厄除などのご神徳のある由緒ある神社です。王子駅より徒歩3分。一度、足を運んでみては如何でしょうか。また、いろいろなお話を頂いた八木宮司、誠にありがとうございました。