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金崎宮

金崎宮
金崎宮
基本データ
旧社格など官幣中社・建武中興十五社
総本社 −−−−−
ご祭神 尊良親王(たかよししんのう)
恒良親王(むねよししんのう)
ご祭神について 尊良親王:鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族、第96代後醍醐天皇の皇子、宗良親王の同母兄、新田義貞や新田義顕と足利尊氏の反旗に応戦、金ヶ崎の戦いで自害を余儀なくされる
恒良親王:鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族、第96代後醍醐天皇の皇子、宗良親王の同母弟、足利尊氏の反旗に応戦、越前敦賀の金崎城で南朝勢力の興起を図る、金ヶ崎の戦いでは捕らえられ京都に幽閉された
ご利益 良縁祈願、恋愛成就、難関突破、開運招福、金運招福 他
参拝形式 二拝二拍一拝
創建 明治23年(1890年)9月
由緒 延元元年(1336年)5月、九州で再挙した足利尊氏が京都に攻め寄せると、後醍醐天皇はこれを比叡山に避けられた が、同年10月に至って一旦尊氏の請を容れられ、京都に還幸されることになり、その際天皇は別に新田義貞(にったよしさだ)に命じ、尊良親王・恒良親王を 奉じて北陸道の鎮撫、官軍再興のために下向せしめられた。新田義貞一行は雪中の木の芽峠を越えて敦賀(つるが)に着き、氣比神宮(けひじんぐう)の大宮司氣比氏 治に迎えられその居城、金ヶ崎城に入った。一方足利尊氏は高師泰(こうのもろやす)を総大将として兵六万余もって陸海より金ヶ崎城を攻撃、延元2年(1337年)正月、 杣山城(そまやまじょう)の瓜生保、里見時成等兵五千余も金ヶ崎の急を救わんとしたが、迎撃に遭い、保、時成等戦死、3月6日遂に落城、尊良親王は新田義顕(新田義貞嫡子)以下将士三百余人と共に亡くなられた。尊良親王御年27歳、義顕18歳であったと伝えられる。恒良親王は、氣比氏治が子息斎晴によって脱出されたが、後に捕らえられて京都に幽閉され、延元3年(1338年)4月13日毒薬を盛られて亡くなられた。御年15歳であったという。明治の御代に至り、当地敦賀の人々の熱烈なる請願により、明治23年(1890年)9月、尊良親王を御祭神とし、宮号を金崎宮として官幣中社に加列せらるる旨が仰出された。同25年11月には恒良親王を本宮に合祀され、同26年5月5日勅使参向せしめられ鎮座祭及び奉告祭を 執行、翌6、7日両日に奉祝祭を執行し、以来毎年6日をもって例祭日と定められた。しかし、同36年3月、町内よりの出火により本殿以下三棟を焼失、日露戦争後の同39年4月に正還宮再建されたが、この時御本殿は現在の地に移され、建築様式も流造より神明造に改められた。昭和57年本殿等の破損著しく改築、桧皮葺の本殿、瓦葺の拝殿等が銅版葺に改められ、現在に至る。
所在地 (〒914-0072)福井県敦賀市金ヶ崎町1-1
最寄り駅 ●JR北陸本線「敦賀」駅より徒歩約30分
その他アクセス −−−−−
電話番号 0770-22-0938
ポイント
建武中興十五社(建武の新政に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする15の神社)の一社となる。
ご朱印対応 あり
公式HP 金崎宮公式サイト
MAP(地図)
イベントスケジュール
4月1日〜15日花換まつり
5月6日例祭
その他イメージ
正面鳥居前
舞殿
摂社(絹掛神社)