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TOP>>神社のススメ>>参拝作法について
「神社」は「神霊」を祀る場所であることから、まさに一定の神域を示しております。このため、神前に及ぶ上での作法やマナーというものがあります。ここではそうした作法やマナーをご紹介しながら、健やかな参拝を迎えて頂ければと思っております。ただし、これらの作法も近年になってから推奨された部分もあり、必ずしもそうしなければならない!という訳ではありませんが、最低限の「畏敬」を示すという意味で、可能な範囲から実践してみてください。
[作法1]神域に入る!
まず、神社へ向かうと必ずと言っていいほど、大きな鳥居がその姿を覗かせます。こちらはまさしく神域の入り口を示すことから、「鳥居をくぐる手前で一礼」してから通ることが推奨されております。そして、帰り際においても「鳥居を出た後に振り返って一礼」をします。ある意味、「お邪魔します・お邪魔しました」という感じでしょうか。

ただし、中には拝殿に臨むまでに数多くの鳥居を見かける神社も少なくありません。その場合は、「手水舎の後に迎える鳥居」の前で一礼をします。理由は「手水舎」があるということは「ケガレを落とす場所」を意味するということで、「ここからはまさに神聖な場所ですよ」という意味になるからです。

もちろん、すべての鳥居で一礼されるのもまったく問題はありませんが、京都の伏見稲荷大社の千本鳥居で同じことをしたら必ず腰を悪くしますからね(笑)。それなりの簡略的手順としては上記一礼にて集約することができます。
[作法2]参道を歩く!
そんな鳥居をくぐると拝殿までは長い参道が続きます。こんな時はよく、「参道の真ん中は歩かない」というのをよく聞きます。これは参道の真ん中は「正中(せいちゅう)」と言い、「神さまの通り道」と言われるからです。もちろん、「神社」という作りそのものは少し近代的な考えでもありますのでその根拠を示すことは出来ませんが、最低限の神前に至る配慮は必要でしょう。

ちなみに参道にはよく玉砂利が敷かれておりますが、これも神聖な場所を清浄に保つためではないかとの指摘があります。例えば、伊勢神宮に敷かれている白石(しらいし)は、式年遷宮の際、宮川上流の河原から汚れていない白石を御正殿の周りに敷き詰めることで神前の清浄さを保っているといいます。そう考えると、神社の境内はあらゆる意味において、「俗世とは隔絶された清浄なる場所」という認識のもと、自らの想う失礼にあたらない態度で臨まれるのが一番なのかもしれません。
[作法3]手水舎でケガレを祓う!
神前に近づくとそこには必ず自らのケガレを祓う場所があります。一般的には、ここを「手水舎(てみずや)」と言い、「ちょうずや」とも読みます。もともと、私たちは、日々の生活の中で、穢(けが)れ(以後ケガレ)ていくと考え、柳田邦男氏は、これを「気枯れ」と表現し、生命力の衰えに例えておりました。俗世と神界は異なる空間と考えられていた当時において、この俗世にまみれる日常は、自然と神聖さが失われてしまう「ケガレ」をまとってしまうと考え、神聖なる神前に上がる前には、自らのケガレを祓おうとしたわけです。

そんな「ケガレを祓う」行為を「禊(みそぎ)ぎ」といい、かつては川や滝、海といった自然の場所で前身を清めてから神前に向かったわけですが、さすがに今これをやるのは大変!ということで、現在、この手水舎で禊ぎを簡単に済ませることになりました。ただし、そこにもそれなりの手順がありますので、以下ご参照ください。
[手水舎の手順]
1.勺を右手で手に取り、水をすくう。
2.続く、一連の禊ぎ行為をこの勺一杯の水で行う。
3.先ずは、そのまま左手を洗う
4.続いて、勺を左手に持ち替え、右手を洗う
5.再び、勺を右手に持ち替える。
6.空いた左手に、勺の水を注ぐ。
7.左手の水を口に運び、口をすすぐ(直接勺から口元に運ばない)。
8.水をそのまま口から吐き出す。
9.使用した左手に水をかけ、左手を再び洗う
10.勺を縦にして水を柄に滴らせ使用した柄の部分も清める

この清める手順を再度分かり易く言うと、左手→右手→口→左手→柄という順番になります。これを一杯の水で行い、最後の勺を立てて水を流すというのは、次の方への配慮という感じでお考え頂ければと思います。これで、私たちの体は身を清められたことになりますので、そのまま拝殿へと向かうことになります。
[作法4]参拝する!
いよいよ、実際の拝殿に臨み、祈願をすることなりますが、これにはいくつかの例外と諸説があります。その為、必ずということは言えませんが、現在、最も強く推奨される手順としては、次のようになります。

1.小銭を用意する。
2.賽銭箱に小銭を入れる。
3.鈴をならす(あればの場合)。
4.二礼二拝一礼をする(詳細は下図参照)。

この拝礼前に小銭を賽銭箱に入れることと、鈴を鳴らす行為には共通の意味が込められると言われることがあります。それは、「音を立てる」ということです。これは、「神さまに自分が伺ったことを知らせる」意味があると言われます。この為、お賽銭にはよく幾らがいいかという話が上がりますが、この説に基づくと、「小銭」が良いとされます。そう、小銭がチャリーンという音を立てるからです。逆に、紙幣を収めたい場合は、そのまま昇殿参拝、正式参拝をお願いした方がいいとも言われますが、あくまで、諸説のひとつということになります。

というのも、鈴は分かりますが、賽銭は元々「おひねり」と言って、米を白紙で包んでいたものをお供えしてきたからです。それが、貨幣経済に移行するにつれ、現金に変わってきたことを考えると、この音という点の説明は、後付けといった感じがしないでもありません。ただし、そんな歴史はさておき、現在最も推奨される手順として見受けられるのが、この作法となります。
[二礼二拍一礼の手順]
この二礼二拍一礼は、いわゆる「両段再拝(りょうだんさいはい)」という作法の流れを汲むものになります。実は、この二礼二拍一礼は数々の変遷を経て、現在のような形に落ち着いております。中には、出雲大社宇佐神宮のように、柏手(かしわで)に4回を求めるところもありますが、これは非常に稀なものと言えます。従って、一般的には、この二礼二拍一礼に準じておりますので、おおよそこれで間違いはないはずです。

また、この柏手を打つ際に、先ず両手をそろえ、この時、そっと右手を下に約1センチほど(指の第一関節ほど)にずらしてから柏手を打つという作法も聞きます。これは、その方が単純に「音が出る」というものもあれば、「不浄の手と合わせない」といった話の他、左手は清浄であり霊すなわち魂を表し、右手は肉体を表すという意味合いのもと、右手を下げるということで、神さまに対して自らの身を一歩引く、という謙遜の意を示すといった話もあります。ただし、これも出典が不明な点もあることから、細かな作法に関しては、諸説見られることを念頭にご理解頂ければと思います。因に、神道用の葬儀の場合、この柏手を打つ時は、音を立てずにそっと打つことになりますので、その点はご注意下さい。
[作法5]祈願する!
最後に実際のご祈願ですが、こちらは、「作法」というより「手順」、「考え方」といった感じでご理解頂ければと思います。近年、パワースポットという響きにある通り、ご利益信仰の側面が強調され、神社に行ってお願いをする感覚の方が強いかと思いますが、これは厳密に言えば誤りと言えます。 何故なら、安易な神頼みは願いに通じることはほとんどないからです。実は、神前に向かうということは、「感謝と意志を示す宣誓」であり、単に求める場ではないと言えます。この為、本来は、神前の前に立った時、以下のような手順が薦められます。

1.自らの名前を述べる。
2.自らの住んでいる現住所を述べる。
3.神前に自ら至った機会に感謝を述べる。
4.自ら願い、欲することの誓いを立てる
ということになります。先ず、忘れがちなのが、自ら名前と住所を述べるということ。これは、実際に正式参拝で神職の方に祝詞を上げて頂く場合もそうですが、この時、必ず名前と住所が添えられます。そうして、祈願の内容が伝えられることからも、同様の手順を踏むということは、原則として正しいと言えるでしょう。

そして、何より大事なのは、お願いではなく、誓いを立てるということ。これは、実際に脳科学的にも正しい行為とされ、畏敬の対象の前で実行の誓いを立てるということは、何よりも重いものとなります。言うなれば、それは、相応の決意の表れであり、それだけの意志を伴ってこそ、その後の行動に変化がもたらされ、大願成就に結びつくと考えられるからです。一方的にご利益を望むばかりでは、一向に実を結ぶこともないというのは、実は、「日本書紀」のエピソードでも語られているものでもあります。この点は、意外と勘違いをしてしまうところかもしれません。だから、良縁祈願に例えて言うのであれば、

・「彼女/彼氏が欲しいです、お願いします」×
・「彼女/彼氏を○○までに作ります!」○

という言い方の方が正しいということになるのです。これは、ある意味、往古の日本人が、「良いことは世の中のおかげで、悪いことは自分のせいである」といった自律的な考え方を持っていることの証かもしれません。というのも、昔は、何か良い事が起こっても、自分の力とは思わず、見えざる神のおかげと自然と考えることができたからです。自らに誓いを立て、成就した暁には、そっとその神の加護に感謝をする。「求めるのは神にではなく、自らの魂に」。

神社には鏡がありますが、そこでよく言うのが、鏡を「かがみ」と平仮名で書くということ。その鏡には何が写るかというと自分自身で、そこで、真ん中の「が」を抜くと「かみ」が現れるという例えからも、日本人の自律的な精神を示す日本人の長年の英知がもたらした固有の考え方と言えるのかもしれません。ご利益とは、あくまで、その自己の誓いと問答の末に見出される結果として、そっと背中を後押ししてくれるという考えと言えるのではないでしょうか。
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