神話期 (ーーー年) | | 諏訪大社 (長野県) | | 諏訪大社が創建されるが、具体的な時期は不明となる。 |
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大同2年 (807年) | | 諏訪神社 (千葉県) | | 高市皇子(たけちのみこ:40代天皇天武天皇の皇子)の後裔が移住し、この地を永住の地と定め、当地開発の守護神として、諏訪大社からご分霊を勧請する。 |
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孝徳天皇8年 (652年) | | 諏訪大社 (長野県) | | 以降、持統5年(691年)、大宝3年(703年)の三度に渡り、朝廷から勅使が派遣される。 |
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弘仁2年 (811年) | | 立川諏訪神社 (東京都) | | 東京の立川の地に、諏訪上社よりご分霊を勧請し、立川諏訪神社が創建される。。 |
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承和9年 (842年) | | 諏訪大社 (長野県) | | 諏訪大社が、従五位下に列せられる。 |
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貞観9年 (867年) | | 諏訪大社 (長野県) | | 諏訪大社が、従一位に列せられる。 |
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天慶3年 (940年) | | 諏訪大社 (長野県) | | 諏訪大社が、延喜式において、最高位である名神大社に列し、信濃国一之宮となる。 |
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元久2年 (1205年) | | 西日暮里諏訪神社 (東京都) | | 豊島左衛門尉経泰が、諏訪大社より御分霊を勧請する。 |
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永仁2年 (1375年) | | 諏方神社(南宮) (福島県) | | 当時の領主直盛が諏訪大社よりご分霊を勧請する。 |
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応永3年 (1396年) | | 赤羽北諏訪神社 (東京都) | | 真頂院の第一世秀善和尚が諏訪大社より御分霊を勧請する。 |
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文明12年 (1470年) | | 諏訪大社 (長野県) | | 諏訪大社の上社と下社の対立が激化(諏訪氏と金刺氏)。戦闘状態に入り、下社、金刺昌春が、甲斐の武田信虎(武田信玄の父)の元へ落ち延びる。これにより、武田家による諏訪平定の口実を与える事になり、結果、諏訪氏は一時滅亡に追い込まれ、最終的には、武田に所領を奪われることとなる。 |
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天正10年 (1582年) | | 諏訪大社 (長野県) | | 織田信長と武田家の対立が激化。織田信長の信濃国侵攻に合わせ、一旦滅亡に追い込まれた諏訪一族の生き残りが、地域各所より集まり、諏訪頼忠を頭領として、諏訪の地を再び取り返す。 |
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慶長5年 (1600年) | | 諏訪大社 (長野県) | | 織田信長の死後、不安定な時期を過ごすこととなるが、最終的には、徳川家康の配下となり、秀吉の時代を静かに過ごし、関ヶ原の合戦で、信濃国の武士の活躍もあって、旧領を復帰し、諏訪頼水が、諏訪高島藩の譜代大名として、存続することとなる。 |
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明治4年 (1871年) | | 諏訪大社 (長野県) | | 諏訪大社が、国幣中社に列せられる。 |
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明治15年 (1882年) | | 札幌諏訪神社 (北海道) | | 信濃出身の上島正他30余名が、当地に入植した後、諏訪大社の御分霊を勧請する。 |
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明治29年 (1896年) | | 諏訪大社 (長野県) | | 諏訪大社が、官幣中社に列せられる。 |
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大正5年 (1916年) | | 諏訪大社 (長野県) | | 諏訪大社が、官幣大社に列せられる。 |
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基本、諏訪神社は、非常にコアな信仰形態をとっているため、そのオリジナルの存在感が強く、従って、中央集権的に、諏訪大社という総本社より直接勧請されるケースが大半と見られる。そして、歴史の表舞台とも非常に密接な関わりを持っており、これも軍神としての存在感が、良くも悪くも武家社会における政治的なつながりに利用されやすいことから、こうした傾向に落ち着いているとも言える。因に、その分布先は、沖縄県を除いて、ほぼ全国にまたがっているとみられている。 |