伊勢系列社の総本社は、伊勢の神宮こと、皇大神宮(内宮)にある。そして、その象徴は「八咫鏡」にあり、内宮では、この三種の神器の一つである「八咫鏡」を祀っていることに、同宮が天皇の氏神たる所以となっている。しかし、この「八咫鏡」も最初からここに奉祀されていたわけではなく、幾つかの変遷を経て、この伊勢の地に至っている。その後、第40代天武天皇が式年遷宮や斎宮制度といった改革に取り組み、江戸時代では、一般庶民にまで浸透し、伊勢講の発展やお伊勢参りの流行といった時代的な変遷を経て、現在に至っている。 |
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(1) | 三種の神器のひとつ、八咫鏡の誕生!
元々、八咫鏡は、石凝姥神(イシコリドメ)、別名、鏡作神(カガミツクリ)が、製作したもので、天照大神が、天岩戸にお隠れになった際、その天照大神を岩戸より連れ出そうとこの鏡を使ったことが最初の登場シーンとなる。その後、天孫降臨(天の神々が宮崎県の高千穂に降臨)の際、瓊瓊杵尊(ニニギ)が、天照大神より三種の神器を授かり、この鏡を天照大神自身と思い、祀りなさいとのご神勅(ご命令)を授かったで、八咫鏡は地上にもたらされたとしている。
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(2) | 八咫鏡の変遷ー伊勢に祀られるまでの経緯
その後、鏡は、宮中に祀られていたのだが、その霊威の高さから、宮中での祭祀が困難となったため(理由は不明だが、当時、疫病の流行で、大勢の民が亡くなっており、その厄災を鎮めるために、その遷座が進められたとも言われる)、崇神天皇6年(紀元前92年)に、崇神天皇の皇女の一人、豊鍬入姫命(トヨスキイリビメ)に、その祭祀場所の選定を託すことになる(これが斎宮制度の始まりとも言われる)。
トヨスキイリビメは、鏡を祭祀する最適地を求め、地方各地を転々と巡り、「元伊勢」と呼ばれる地も一時的に「この鏡が祀られた場所」に用いられている。一番有名な場所に大和の笠縫邑(かさぬいむら)などが上げられるが、その笠縫邑の所在も諸説あり、明確な地は未だ判明していない。ただし、京都の籠神社(こもじんじゃ)は、その笠縫邑から移った次の祭祀場所、与佐宮(よさのみや)とされ、「元伊勢」を代表する場所(神社)の一つとなっている(籠神社の社家、海部(あまべ)氏は、現在、82代目を迎え、その家系図は国宝にもなっている)。また、内宮の別宮とされる瀧原宮(たきはらのみや)も伊勢に至る直前まで祀られていた代表的な「元伊勢」の一つでもある。
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(3) | 伊勢神宮の創建
時代は続く、第11代垂仁天皇の御代(紀元前19年〜紀元前10年)になっても、なかなか鏡の祭祀場所は安定しなかった。そのため、その選定は、日本武尊(ヤマトタケル)の叔母にあたる倭姫命(ヤマトヒメ)に託されることになる。ヤマトヒメは引き続き最適地を追い求めて、この伊勢に到達したところ、「この地がよろしい」との御神託が下り、ここにきてようやく、伊勢、皇大神宮の起源を迎えることになった。
ちなみに、この地が選ばれた理由としては諸説あり、一つはこの伊勢が「当時の王都、奈良からみて、伊勢が東方にあたる、つまり太陽の昇る方向に位置するから」というもの、二つに「伊勢の鎮座する紀伊半島が当時からみて、最西南端にあたり、もっとも日の入りを遠くに拝める地にあるから」というものがある。実際、「記紀」には富士山の記述が見られないことから当時は名古屋までが大和国の最西端だったのではないかという指摘があり、そこから最南端に位置する紀伊半島はもっとも遠い位置に相当する。さらに、大西洋の海の彼方というのは常世の世界とも伝えられ、もっともあの世に近い場所がこの紀伊半島並びに伊勢というのは、非常に説得力があると言えるだろう。また、異説の中には、神託の際に、「うましくになり」と伝えられたことから、「食」が豊かだったからではないかという指摘もある。確かに伊勢には伊勢海老を筆頭に豊かな海産資源に恵まれた地とも言え、さらにはトヨウケヒメが天照大神の食事係と迎えられた事情からみれば、こうした説にも一定の整合性をみることができる。
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(4) | 式年遷宮の始まり
こうして創建された伊勢の神宮は第40代天武天皇の御代(673年〜686年)に大きな転換期を迎える。まず、壬申の乱で勝利を掴んだ天武天皇は、その直前に、伊勢の神宮の近くで勝利祈願のご祈願を遥拝したことから、以来、伊勢神宮を篤く崇敬したと言われている。このため、天武天皇は、現代にも通ずる大きな祭祀制度を導入している。そのひとつが、神宮式年遷宮(20年に一度の社殿の立て替え)で、その理由は定かではないが、続く、第41代持統天皇の治世に第1回目が行われ、2013年(平成25年)には、第62回目の式年遷宮が迎えられた。
そして、もうひとつが、斎宮制度(さいぐうせいど)というもので、天皇の代理として天皇の未婚の娘、姉妹、場合によって、孫女といった皇女が神宮に仕える制度が成立したのもこの時期とされる。これは、トヨスキイリビメが、鏡の祭祀場所を求めてその管理を任された状況と酷似しており、これを正式に代理制度として設けたものと考えられている。
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(5) | 伊勢神宮の私幣禁断
第50代桓武天皇の御代(781年〜806年)、当時の神宮は現在とその趣は大きく異なっていた。例えば、神宮は私幣禁断(天皇以外の奉幣禁止)の社に定められたことで、一般人の参拝はもとより、皇太子や皇族でさえも同様の許可がなければ奉幣できなかった。これによって、神宮は皇祖を祀るその神格化がさらに強められたと言える。これは同時に、当時、律令制度が確立し、伊勢を含めた中央集権体制が図られたこととも無縁ではない。封建主義とは共産主義とも言えるほど、私財が厳格に制限された時代であり、神宮は一般の参拝を期せずとも運営できる体制にあったというのは、一つの時代的特徴の一つと言える。
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(6) | 伊勢神宮の私幣解放
しかし、律令制度が崩壊すると、中央集権的な財務体制が維持できなくなっていく。これは当時、朝廷が改革開放路線に着手し、三世一身の法、墾田永年私財法といった具合に私財の保持を認めていったことと無縁ではない。結果、荘園を代表とする貴族層が台頭し、これが後に武家勢力の誕生に繋がって行く。
このため、神宮は財政的に困窮していくことになり、鎌倉時代以降は、徐々にその門戸を上流階級にも解放していくことになった。それが、最終的な段階を経て、私たち一般庶民にも参拝が許される布石へと繋がっていく。しかも、鎌倉末期、元寇というモンゴル軍の襲来によって、神国思想が高揚を見せる時期があり、この時、亀山上皇が伊勢神宮へ参拝し、敵国降伏の祈願をしたと言われ、結果、神風が起こり、日本は守られたと考えられたことから(内宮・外宮に鎮座する風日祈宮・風宮がその神風を起こした神と伝えられる)、上流層への間ではより一層の崇敬を集めた。ちなみに、これに呼応するかのように、伊勢の外宮の神官、度会行忠(わたらいゆきただ)が、「伊勢神道」を提唱し、当時はどちらかと言えば、内宮より外宮の存在が際立っていた。
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(7) | 伊勢神宮の暗黒時代
しかし、室町時代を迎えると、神宮は徐々に存亡の危機に立たされることになる。当時は、式年遷宮の費用調達を目的とした臨時課税「役夫工米(ヤクブクマイ)」を荘園や諸国の公領に負担させていたのだが、幕府が衰退し始めるとその徴収が困難となり、式年遷宮が滞り始めた。このため、20年に一度施行されるはずの式年遷宮は、およそ123年もの間、施行されず、社領も極度に荒廃していったものという。
しかし、そんな中、この苦境を打開するにあたり、最初にその理解を示したとされるのが実は織田信長公とされ、当時、外宮の神官からの要請に応じ、十分な資金提供を申し出たという。結局は、本能寺の変が起こったため、この支援が実を結ぶことはなかったが、最終的には、豊臣秀吉公が黄金250枚を寄進し、伊勢は式年遷宮の再開にこぎつけるようになる。
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(8) | 伊勢の参宮ブーム到来へ
そんな神宮再興の兆しの影には、御師(おし)と呼ばれる神職者の活躍もあった。御師は、祈祷を行いながら、御祓大麻(神宮大麻)と暦を配って歩く人々で、全国の檀家(崇敬者)との間に師檀関係を結ぶ、まさしく神社コンダクター的な役割を果たした。このため、江戸時代には、「伊勢講(いせこう)」と呼ばれる参拝組織が全国各地で結成されていった(当時は、その参拝資金を用意するにも厳しいものがあり、こうして講を組織して、資金を互いに出し合いつつ、くじ引きで、選出された者が代表して伊勢に参拝していたと言われる)。
こうして迎えた神宮参拝の動きを、「お蔭参り」と呼び、一生に一度の大旅行、「日本人に生まれたおかげ、生かさせていただく有り難さを感謝する」という運動が起こり、数百万単位の集団参詣(これを「おかげ年」という)が、おおよそ60年周期で、数回にわたり起こった。特に、文政13年(1830年)に起こった参宮ブームは、大いなる盛り上がりを見せ、当時、およそ、3200万程度と推定される人口に対して、約4ヶ月で、427万6500人もの動員を達成したと言われる。
ただし、この参宮ブームには、他の誘因も幾つか指摘されている。一つが、当時、伊勢参宮ブームの中心が内宮よりも外宮にあったということ。これは、外宮が五穀豊穣や商売繁盛といった神さまが祀られていたこともあり、私幣に対して寛容であったことから、国民の大半を占める農民にも熱狂的な支持を得られやすかったことが上げられる。そして、二つには、当時、農民には厳しい移動制限が課せられていたが、伊勢参拝のみ別格の扱いを受け、その証拠がなくとも、伊勢参りを所望すれば誰も邪魔立てはできず、唯一の国内旅行として容認されていた点などが上げられる。要するに、伊勢参拝は今でいう海外旅行のような羨望の的にあったというのも、更なる参拝者を招く契機になったと考えられている。
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こうして、伊勢神宮は、今なお私たちの国を象徴とする神社となり、その主祭神たる天照大神は、全国でもっとも崇敬される神として、知れ渡るようになっていった。そして、各地では、そんな伊勢を祀るようになり、それが、神明神社や天祖神社となって、各地で迎えれていた。東京都内でも、「東京のお伊勢さま」と呼ばれ、千代田区の東京大神宮や港区の芝大神宮といった神社が人気を博し、各地に勧請されていった。 |
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伊勢神宮の主な構成社
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| | ■ 【正宮】皇大神宮(こうたいじんぐう)/内宮 [主祭神]天照坐皇大御神 ・伊勢神宮の中心地! ・内宮のページへ |
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| | ■ 【正宮】豊受大神宮(とようけだいじんぐう)/外宮 [主祭神]豊受大御神 ・内宮と双璧を成す正宮で、天照大神の食事処を司る五穀豊穣、商売繁盛の社! ・外宮のページへ |
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| | ■ 【内宮別宮一位】荒祭宮(あらまつりのみや) [主祭神]天照大神荒魂 ・内宮の宮域内に鎮座し、正宮参拝後に参拝するのがよしとされる。 ・内宮別宮10社中1位にあたり、瀧原竝宮と同じく天照大神荒魂を祀る。 ・石段には通称「踏まぬ石」と呼ばれる4つ割れた箇所があり、通例、ここを避ける。 ・内宮のページへ |
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| | ■ 【内宮別宮第二位】月讀宮(つきよみのみや) [主祭神]月讀尊 ・内宮の宮域外に鎮座し、内宮の宮域外に鎮座する中では最高位に位置する。 ・月讀宮のページへ |
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| | ■ 【内宮別宮第三位】月讀荒御魂宮(つきよみのあらみたまのみや) [主祭神]月讀尊荒御魂 ・内宮の宮域外に鎮座し、月讀宮内に鎮座する。 ・月讀宮のページへ |
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| | ■ 【内宮別宮第四位】伊佐奈岐宮(いざなぎのみや) [主祭神]伊弉諾尊 ・内宮の宮域外に鎮座し、月讀宮内に鎮座する。 ・月讀宮のページへ |
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| | ■ 【内宮別宮第五位】伊佐奈弥宮(いざなみのみや) [主祭神]伊弉冉尊 ・内宮の宮域外に鎮座し、月讀宮内に鎮座する。 ・月讀宮のページへ |
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| | ■ 【内宮別宮第六位】瀧原宮(たきはらのみや) [主祭神]天照坐皇大御神御魂 ・内宮の宮域外に鎮座し、瀧原宮内に鎮座する。 ・別名、天照大神の遙宮と称され伊雑宮と同じく天照坐皇大御神御魂を祀る。 ・瀧原宮のページへ |
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| | ■ 【内宮別宮第七位】瀧原竝宮(たきはらならびのみや) [主祭神]天照大神荒魂 ・内宮の宮域外に鎮座し、瀧原宮内に鎮座する。 ・瀧原宮のページへ |
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| | ■ 【内宮別宮第八位】伊雑宮(いざわのみや) [主祭神]天照坐皇大御神御魂 ・内宮の宮域外に鎮座し、伊雑宮内に鎮座する。 ・別名、天照大神の遙宮と称され瀧原宮と同じく天照坐皇大御神御魂を祀る。 ・神饌用の米は当地の御神田で栽培される。 ・伊雑宮のページへ |
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| | ■ 【内宮別宮第九位】風日祈宮(かざひのみや) [主祭神]級長津彦命・級長戸辺命 ・内宮の宮域内に鎮座する。 ・外宮の風宮と同じ御祭神を祀る。 ・外宮の風宮と共に元寇で神風を起こしたとされ別宮に昇格した。 ・内宮のページへ |
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| | ■ 【内宮別宮第十位】倭姫宮(やまとひめのみや) [主祭神]倭姫命 ・内宮の宮域外に鎮座する。 ・唯一、近代(大正12年:1923年)に創建された神社。 ・倭姫宮のページへ |
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| | ■ 【外宮別宮第一位】多賀宮(たかのみや) [主祭神]豊受大御神荒魂 ・外宮の宮域内に鎮座する。 ・外宮のページへ |
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| | ■ 【外宮別宮第二位】土宮(つちのみや) [主祭神]大土乃御祖神 ・外宮の宮域内に鎮座する。 ・祭神の大土乃御祖神は外宮鎮座地の地主神とされる。 ・外宮のページへ |
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| | ■ 【外宮別宮第三位】月夜見宮(つきよみのみや) [主祭神]月読尊 ・外宮の宮域外に鎮座する。 ・当初は高河原神社に始まり、外宮摂社の首位とされ、別宮に昇格したという。 ・ 月夜見宮のページへ |
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| | ■ 【外宮別宮第四位】風宮(かぜのみや) [主祭神]級長津彦命・級長戸辺命 ・外宮の宮域内に鎮座する。 ・外宮の風日祈宮と同じ御祭神を祀る。 ・内宮の風日祈宮と共に元寇で神風を起こしたとされ別宮に昇格した。 ・外宮のページへ |
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