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基礎情報
総本社 伏見稲荷大社
=目次(INDEX)=
基本情報
主祭神
その他神さま
ご利益
歴史
代表的なお稲荷さま
所在地(〒612-0882)京都府京都市伏見区深草藪之内町68
神使狐(キツネ)
三大稲荷1.伏見稲荷大社(京都府京都市)
2.笠間稲荷神社(茨城県笠間市)
3.祐徳稲荷神社(佐賀県鹿島市)
他諸説多数あり。
系列社稲荷神社、稲荷大明神、稲荷社、稲生神社、伊奈利神社 他
備考
稲荷神社は全国で一番数の多い神社とされ、その数、3万社以上とされる。
豊川稲荷(曹洞宗)、最上稲荷(日蓮宗)などは仏教系寺院に属す。
正一位」とつく神社は伏見稲荷大社より正式に勧請されたものされる。
「◯◯稲荷」と社名の始まりに迎えられる言葉には一定の意味を持つものがあり、例えば、「かさもり稲荷」は「皮膚病の快癒」を意味し、「出世稲荷」はその名の通り、「立身出世」を意味するお稲荷さんで、用途に応じて使い分けがみられるのも稲荷神社の特徴の一つとなる。
登録状況現在、1,583社(令和2年3月8日現在)→全国の稲荷系列神社はこちら
主祭神

稲荷大神(イナリノオオカミ)

[古事記]宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)
[日本書記]倉稲魂尊(ウカノミタマノミコト)
[別名]御饌津神(ミケツノカミ)

稲荷神の語源には諸説あるものの、一般的には「稲成り」から由来するされ、まさに農業と深い関係にあることが分かる。中でも、宇迦之御魂神は、稲荷大神を代表する神さまで、農耕・穀物の神さまを意味し、かつては米の備蓄を行う食料庫をはじめ、農業・農耕に関わる地に迎えられている。それは、宇迦之御魂神というご神名も同様、「ウカ」は、穀物食物を表すことから、「稲に宿る神霊」を意味する。そんな宇迦之御魂神は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)と神大市比売神(カムオオイチヒメノカミ)との間に生まれ、その兄神にはお正月で有名な大年神(オオトシガミ)がいる。また、稲荷大神を仰ぐ、秦氏の商業的活躍も加わり、商売繁盛の神さまとしても広く知られる。因に、宇迦之御魂神の性別は不明だが、稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社では、宇迦之御魂神を女神としている。
その他神さま

稲荷神社では、原則、宇迦之御魂神を代表とする農耕の神が祀られているが、宇迦之御魂神以外の農耕の神が祀られるケースも一部存在する。

1.保食神(ウケモチノカミ)

保食神(ウケモチノカミ)は、「古事記」には登場せず、「日本書紀」にのみ登場する。それは、月夜見尊(ツクヨミノミコト)が、天照大神(アマテラスオオミカミ)のご命令で、葦原中国(地上)の保食神を見に行った時のこと。保食神が口の中から食材を吐き出し(海を向くと魚を、山を向くと獣のを吐き出したという)、月夜見尊をもてなそうとしたところ、月夜見尊はそれを汚らわしく思い、保食神を斬り殺してしまったというエピソードがある。(これが原因で月夜見尊と天照大神は喧嘩となり、昼と夜、つまり太陽と月の関係が生まれた)とされる。そして、この時、保食神の死体から食物が誕生したとされ(頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目からら稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆)、これが食物の連鎖を表してるという。基本は、宇迦之御魂神と同じく、農耕の神とされ、一般的には女神とされる。また、神仏習合の時代においては、馬頭観音(ばとうかんのん)と習合していた時代もあり、その流れを汲んだ保食神を祀る稲荷神社も少なくない(馬頭観音は馬の無病息災の守り神としても広く信仰されていたという)。ちなみに、ご神名の「ウケ」は、宇迦之御魂神の「ウカ」と同様、「食物・穀物」を意味するとされる。

2.大食津比売神(オオゲツヒメノカミ)

[別記]大宜都姫神(オオゲツヒメノカミ)

大宜都姫神は「古事記」に登場し、五穀養蚕を司る神とされる。その登場シーンは、保食神のエピソードと酷似しており、素戔嗚尊(スサノオノミコト)は出雲の国に向かう道中で、この大宜都姫神と出会う。そこでは腹を空かせた素戔嗚尊は、大宜都姫神に食物を求めると、大宜都姫神は様々な食物でこれをもてなした。しかし、あまりに容易に差し出す大宜都姫神に不審を抱いたスサノオは、大宜都姫神が食材を用意する様をこっそり除き見ると、大宜都姫神は、自身の鼻や口、尻から食材を取り出していたことを知り、これに激昂した素戔嗚尊は大宜都姫神を斬り殺してしまう。すると、その頭から蚕、目から稲、耳から粟、鼻から小豆、陰部から麦、尻から大豆が生まれたといい、これを高天原(天の世界)から見ていた神産巣日神(カミムスビノカミ)はこれを採取して地上に授けたという話があり、これが神話における五穀の起源とされている。また、ご神名の「ゲ」も保食神の「ウケ」と同じく、「食物・穀物」を意味し、「大いなる食物の女神」を意味する。

3.豊受大神(トヨウケノオオカミ)

[古事記]豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ)
[日本書紀]豊受媛神(トヨウケビメノカミ)
[別名]大物忌神(オオモノイミノカミ)ほか

豊宇気毘売神は「古事記」で、火之迦具土神(カグツチノカミ)を生んで、病床で苦しむ伊弉冉尊(イザナミノミコト)の尿から生まれた和久産巣日神(ワクムスビノカミ)の御子神とされる。ご神名の「ウケ」とは、保食神の「ウケ」と同様、「食物・穀物」を表し、他の神々と同じく、穀物の神とされる。このため、伊勢の豊受大神宮(外宮)では、この豊受大神が天照大神の食事を司る神として迎えられている。


このように、これら三柱の神々は、いずれも同じような意味、性質を持ち、そのすべてが穀物の神という農業に深く関わる神々となっている。このため、それぞれが稲荷神と習合化をはかることで、同一視されるようになったと言われている。このため、稲荷神社では、基本、宇迦之御魂神を主祭神として祀る神社が多いながらも、中には、この3柱の何れかの神さまを祀るケースもあり、この点においては多少の注意が必要となってくる。
ご利益
五穀豊穣稲荷神が食物の神を表すことから最も代表的なご利益が、この五穀豊穣と言える。また、境内に祀られている狐の神使像の中には、口元に鍵をくわえているものがあるが、その鍵は、食物庫の鍵とも言われ、やはり農業と非常に深い関係が伺える。

商売繁盛これは、稲荷神が養蚕業などの商業の神をも司る点と、農民から商人に、信徒が拡大するにつけ、商売繁盛として側面が拡大解釈されていった結果と考えられている。

※ご利益に関しては、あくまで参考程度にお考え下さい。
歴史
稲荷神社は、国内で最も普及した神社と言ってもよいが、その最大の理由は一般庶民にもっとも支持された神さまという点が上げられる。実際、江戸時代までは国民の84%が農業従事者とされ、この点だけでも十分な崇敬を集める理由と言える。そこに個人的な願いとして人気の高い「商売繁盛」なども加わることで、一般的な庶民にとってもっとも身近な存在であったことが伺える。事実、他の神社に比べると各地に点在する「お稲荷さん」は非常にコンパクトなものが多い。これも、稲荷神社が如何に多くの個人から崇敬を集めてきたのか、という一つの証左であり、その分、数も多いという結果として現れている。さらには、神仏混合という要素も大きく、いまだに「神道系稲荷」と「仏教系稲荷」が両立している点はこのお稲荷さんの最大の特徴の一つとなっている。
(1)稲荷信仰始まりの謎

稲荷神社の原点は、次に上げる、秦(はた)氏による京都の伏見稲荷大社の創始に求められるが、全国の稲荷神社をみていくと、実はこの伏見稲荷大社より古い歴史を持つ稲荷神社があり、そこが稲荷信仰の難解さを際立たせている。中でも、「本朝最初の稲荷神社」の扁額を掲げる糸我稲荷神社(いとがいなりじんじゃ)は、一般に京都の伏見稲荷大社の創始が、和銅4年(711年)とするのに対し、こちら糸我稲荷神社は、その創始を白雉3年(652年)と60年近くも前に遡る。さらに、三大稲荷の一つにも数えられる笠間稲荷神社 (かさまいなりじんじゃ)は、白雉2年(651年)と、そこから更に1年古く、その始まりは実に多くの謎に包まれている。これは、ひとつの考え方として、稲荷信仰とは、元々、土着的にみられた農業・稲穂の神さまとの統合にあるのではないかとも考えられ、「ウカ」や「ウケ」といったご神名が「食物・稲穂」の神さまとして広く共通していることからも、もともと各地に存在する「稲穂の神、ご神霊」が、「稲荷神」と習合ならびに体系化されることで、一つの信仰形態に収束していったのではないか、とも推察される。
(2)稲荷神の降臨ー秦氏の信仰

そんな稲荷信仰の発展に大きく寄与したと言えるのが、最初に稲荷神が降臨したとされる稲荷山周辺に勢力を構えていた豪族、秦(はた)氏である。秦氏は、渡来系商人の筆頭的氏族であり、「山城国風土記」には次のような記述がみられる。

むかし、「伊侶具(いろこ・いろぐ)という秦氏の先祖にて、稲作によって富を築いた者がいたという。そんなある日、伊侶具が餅を的にして矢を放ったところ、その餅が白鳥となって空へと旅たち、稲荷山で稲が成ったため、「稲成」と称し、ここに稲荷信仰が始まったというもので、この逸話をもって、「稲荷(いなり)」というご神名が誕生したとされる。

しかし、その後、この餅を射る行為が穀物に不敬を働く行為とみられ、秦氏は一度、没落の憂き目をみたとも言われており、この豊穣の山の奇跡と自身の失墜から、稲荷神を深く崇敬するようになったとも言われ、これが現在の稲荷信仰の基盤とされる。そして、この時、建てられた神社が、稲荷神社の総本社とされる伏見稲荷大社とされる。ちなみに、畑氏、畑野氏、波多氏などの姓をもつ者は、この秦家の流れにあり、同様に稲荷神を信仰している。
(3)農業人口の増加

当然のことながら、稲荷神社は農耕の神さまを祀っている。このため、稲荷神社は農村部に多く祀られており、江戸時代では、全人口における84%以上が農民であったと言われていることからも、農村を中心に拡大したことは当然一つの大きい要素と言える。
(4)農業信仰から商人信仰へ

稲荷信仰創設の立役者となった秦氏は、渡来の技術を持って台頭し、機織り業、養蚕業といった国内産業の発展に大きく寄与しており、それが、後の商人として、一部、全国に拡大している。これは、日本三大商人のひとつ、近江商人も秦氏の末裔とも一部指摘されており、こうした稲荷神を信奉する商人の活躍は「商売繁盛」としての実績を多数輩出し、それが一般庶民にも根付き、農業、商人という一般人における最も身近な神社として、広く、崇敬されるに至ったと考えられる。しかも、「正一位」という個人でも勧請できるシステムをいちはやく導入したことで、その広がりは加速度を増し、現在でも、百貨店や大手商社など有名な企業の多くは、独自に稲荷神社を祀る企業も少なくない。
(5)真言密教との習合ーお狐さまと怨霊

稲荷神社も神仏混淆を果たした神社のひとつとなる。ポイントは大きく分けて二つあり、ひとつは、真言密教と習合したもので、京都の真言宗総本山、東寺(とうじ)の五重塔建立に際し、伏見の稲荷山(稲荷信仰の原点の地)から用材が切り出したとされたと言われている。結果、稲荷神が東寺の守護神として迎えられたと考えられるようになった。この事に関しては、初代管長を務めた空海が、稲荷神と交渉したという旨まで伝えられている。そういう意味では、各地の稲荷神社の中には空海による勧請もあり、これも一つ神仏習合における恩恵と言えるのかもしれない。

そして、ふたつが、稲荷神の使い、いわゆる神使(しんし)となる「」が、仏教の神と混淆していったこと。「狐」を神使とする理由は諸説あるが、『平清盛が若かりし頃、狩りに出て、狐に的を絞ったところ、狐が突然美女に変化し、「我を救えば、願い事を叶えよう」と告げ、その神託に清盛公が従った』という逸話が残っており、この美女が荼枳尼天(だきにてん)を自負していることから、以後、清盛公は荼枳尼天を信仰したと伝えられる。

しかし、荼枳尼天は、本来、インドの悪神で、死者の心臓や肝を喰らう非常に怖いイメージであったことから、元々、格の高い霊獣と認められてきた狐が、荼枳尼天と混淆することによって、怖いイメージもつきまとうようになった。実際、狐を怒らせると取り憑かれるという噂が広まり、狐の祟りによる事件が続発したこともあった。そのため、その祟りを鎮めようと稲荷神社を建立するケースも起きている。因に、墓場の狐火や狐が化けるといったイメージもこの荼枳尼天との習合からきている。
(6)邸内に祀られる稲荷勧請システム

東京にいると小さな稲荷神社をよくみかける。それは、昔の言葉に、「江戸に多いモノに伊勢屋・稲荷に犬の糞」という表現もあり、それだけ都内には稲荷神社が多いことが伺える。そして、その代表的な理由のひとつに、江戸時代に参勤交代で、江戸に出仕させられた大名の屋敷内に祀られた稲荷神社の存在が上げられる。これは、遠方から遣わせられた大名が、遠い郷里の五穀や発展を願って、江戸の仮屋敷(邸内)の特に鬼門の位置に勧請したもので、当時、「稲荷勧請(いなりかんじょう)」と呼ばれるご分霊を移した依り代を遷座するシステムが流行した。今では、そうした大名屋敷自体は残っていないが、稲荷神社だけが周辺の町民に譲り受けられ、今なお守られているケースも少なくなく、これは、豪商なども同様で、多くは個人の敷地にはたくさんの稲荷神社が勧請されていった。よく稲荷神社の冠に「正一位」という文言を掲げる稲荷神社をみるが、これも一時期、不正が出回り、正規ルートを得ないで勧請を謳う稲荷神社が現れたため、今でいうライセンスのような形で、伏見稲荷大社からの正規勧請を謳う形で、この看板が用いられるようになったという。結果、稲荷神社は数多くの勧請が行われ、日本でもっとも多い数に成長したのはこうした独自の勧請システムに負う部分も少なくない。
稲荷神社拡大年表
白雉2年
(651年)
笠間稲荷神社
(茨城県)
こちらも具体的な創建時期は不明としながらも、社伝では、その創建は、661年にのぼるとされ、『常陸国風土記』によると、7世紀ごろにはすでに当地で宇迦之御魂神への信仰が行われたと記されている。

白雉3年
(652年)
糸我稲荷神社
(和歌山県)
実は、伏見稲荷大社の創建よりも古い稲荷神社の存在が指摘されており、この和歌山県の糸我稲荷神社では、「長引く凶作を憂えた村人が、高山に登拝し、数日にわたって供物を捧げ、豊作を祈念→倉稲魂命が降臨し、御神託を下した。」とあり、境内にも、「本朝最初の稲荷神社」の石碑が残っている。

和銅年間
(708〜15年)
稲荷山
(京都府)
当時、稲荷山近辺で富を得ていた一族に秦家がいた。その一人、秦伊呂具(いろこのはたのきみ)は、餅を的にして矢を放っていた。すると、その餅は、白鳥へと変化し、そのまま伊奈利(稲荷山)三ヶ峰の方角に飛翔し、その山の峰に、稲が成ったと言われ、稲荷の語源が生まれる。また、同じくして、勢力を誇った泰氏も、この事件以降、衰退の一途をはかっていた。

和銅4年
(711年)
伏見稲荷大社
(福岡県)
秦伊呂具は、衰退していく秦家は、自らの愚行が招いたとし、伊奈利(稲荷)三ヶ峰の平なところに稲荷神を祀ったとされ、これが伏見稲荷大社の始まりとされている。

和銅5年
(712年)
箭弓稲荷神社
(埼玉県)
当時、既に小さな祠として祀られたとされ、その詳細は謎だが、この年を既に創建の時期としている。

延暦13年
(794年)
平安京
(京都府)
この年、長岡京より平安京への遷都が行われるが、実は、この平安京への遷都には、秦氏の財務的支援があったとも言われている。これが事実であれば、平安京への遷都は、秦氏の政治的基盤を強め、暗躍する商人の立場と共に、稲荷神社拡大の起爆的要因になったと推察もできる。

延暦15年
(796年)
伏見稲荷大社
(福岡県)
京都の九条町に、真言宗の総本山、東寺が建立される。この時、五重塔の建立に、伏見の稲荷山から用材が切り出されたことから、稲荷神が東寺の守護神として、習合化を果たしていくことになる(空海が稲荷神と交渉したとも伝えられる)。

大同2年
(807年)
草戸稲荷神社
(広島県)
明王院を開基したとされる空海上人が同寺の鎮守として、祀ったことに始まるとされる。

弘仁2年
(811年)
館腰神社
(宮城県)
空海が、当地に弘誓寺を創建するにあたり、伏見稲荷より御分霊を勧請したとされる。

承和9年
(842年)
竹駒神社
(宮城県)
小野篁(おののたかむら)が陸奥国司として赴任した際、伏見稲荷を勧請して創建したとされる。

天慶3年
(940年)
烏森神社
(東京都)
平将門が乱を起こした時、藤原秀郷(俵藤太)が武蔵国のある稲荷神社に戦勝を祈願した結果、無事に乱を鎮めた御礼として創建したとされる。

天喜5年
(1057年)
志和稲荷神社
(岩手県)
源頼義が安倍頼時、貞任父子の追討(前九年の役)において、陣ヶ岡に布陣した際に、その戦勝を祈願し伏見稲荷よりご分霊を勧請したことに始まる。

平安時代
(1100年代)
蓮台野
(京都府)
平清盛の若い頃、狩りをしていた時に、一匹の狐に矢を向けて狙い定めていた。すると、その狐は、美女へと変化し、自らを、仏神「荼枳尼天(だきにてん)」と称し、自らを救う代わりに、願い事を叶えると清盛に神託を授けたという。

長禄元年
(1457年)
千代田稲荷神社
(東京都)
太田道灌公が江戸城(千代田城)を建築した際、城内に京都の伏見稲荷を勧請したという。

長禄元年
(1457年)
常磐稲荷神社
(東京都)
太田道灌が江戸城を築城の際、京都伏見稲荷大神の御分霊をいただき、常磐稲荷と名付け、江戸城の守護神として勧請したという。

長禄2年
(1458年)
柳森神社
(東京都)
太田道灌公が江戸城の鬼門除けとして、多くの柳をこの地に植え、京都の伏見稲荷を勧請したという。

明応5年
(1496年)
高橋稲荷神社
(熊本県)
隈本城の初代城主である鹿子木親員が支城として稲荷山山頂に上代城を築いた際、城内鎮守のため京都の伏見稲荷神社より御分霊を勧請したという。

明治17年
(1884年)
札幌伏見稲荷神社
(北海道)
初代野村茂翁元官幣大社となる札幌神社称宣が、京都伏見にある伏見稲荷大社のご分霊を勧請したという。

稲荷神信仰は、伏見稲荷大社における秦氏を起点に広まりを見せているのは事実であるが、その稲荷信仰における創始には、別の地にも見られることから、元々、地方神として、稲荷神信仰(穀物神信仰)があったのではないかと考えられる。それは、稲荷神と一口に言っても、複数の神の存在が見られる点、その代表とされるウカノミタマが、いわゆる記紀という神話の中では、名前を残すだけで、とりわけ大きな活躍を残していない点などから、地方神として存在した穀物信仰を中央に組み込むため、組織化された可能性も考えられる。

それが、秦氏の活躍とリンクして考えると、非常にスムーズにその繁栄の過程を追うことができる。これは、また、稲荷神社拡大の特徴のひとつに、総本社からの直接勧請が多いというのも同様で、八幡神社や日枝神社などは、ご分霊にご分霊をかさねて、徐々に、信仰の頒布が移動しているケースが多いが、稲荷神社は、その数が多いだけに、中央集権的に、直接勧請がかなり機能しているのは、それだけ、伏見稲荷と秦氏の拡散が実働的役割を果たしていたのではないかという推測ができるが、とにかく、稲荷信仰は全国に幅広く浸透しているのは、その最大の特徴でもある。因に、東京都内において、稲荷神社が多いのは、一部には、江戸城を築城した太田道灌 が、その鬼門除け、守護神として、相当数の稲荷神社を勧請したことも理由に挙げられる。
代表的なお稲荷さん
■ 伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)/総本社
[所在地]京都府京都市伏見区深草藪之内町68
[主祭神]宇迦之御魂神・佐田彦大神・大宮能売大神・四大神・田中大神
・稲荷神社のいわゆる総本宮にあたる中心的な神社!
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■ 笠間稲荷神社(かさまいなりじんじゃ)
[所在地]茨城県笠間市笠間1
[主祭神]宇迦之御魂神
・白雉2年(651年)創建という、国内でもっとも古い歴史を持つ稲荷神社!
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■ 糸我稲荷神社(いとがいなりじんじゃ)
[所在地]和歌山県有田市糸我町中番329
[主祭神]宇迦之御魂神・土御祖神・大市比賣神
・本朝最初の稲荷神社を掲げる稲荷神社!
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■ 祐徳稲荷神社 (ゆうとくいなりじんじゃ)
[所在地]佐賀県鹿島市古枝下古枝1855
[主祭神]宇迦之御魂神・大宮能売神・猿田彦神・神令使命婦神・萬媛命
・日本五大並びに九州三大稲荷の一つに数えられる稲荷神社!
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■ 高橋稲荷神社 (たかはしいなりじんじゃ)
[所在地]熊本県熊本市西区上代9-6-20
[主祭神]宇迦之御魂神
・日本五大並びに九州三大稲荷の一つに数えられる稲荷神社!
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■ 扇森稲荷神社 (おうぎもりいなりじんじゃ)
[所在地]大分県竹田市大字拝田原字桜瀬811
[主祭神]保食命・猿田彦神・大宮能売神
・日本五大並びに九州三大稲荷の一つに数えられる稲荷神社!
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■ 太皷谷稲成神社(たいこだにいなりじんじゃ)
[所在地]島根県鹿足郡津和野町後田409
[主祭神]宇迦之御魂神
・日本五大稲荷の一つとされ、島根では出雲大社に次ぐ参拝客を誇る稲荷神社。!
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■ 草戸稲荷神社(くさどいなりじんじゃ)
[所在地]広島県福山市草戸町1467
[主祭神]保食命・宇迦之御魂神・大己貴命
・広島県内で二番目に多い参拝者を迎える人気の稲荷神社!
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■ 瓢箪山稲荷神社(ひょうたんやまいなりじんじゃ)
[所在地]大阪府東大阪市瓢箪山町8-1
[主祭神]保食命
・辻占いの総本社と言われる大阪を代表する稲荷神社!
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■ 源九郎稲荷神社(げんくろういなりじんじゃ)
[所在地]奈良県大和郡山市洞泉寺町15
[主祭神]宇迦之御魂神
・源義経公を守り通したと言われる数々の狐伝承で有名な稲荷神社!
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■ 竹駒神社(たけこまじんじゃ)
[所在地]宮城県岩沼市稲荷町1-1
[主祭神]宇迦之御魂神
・日本三大稲荷の一つに数えられることもある東北を代表する稲荷神社!
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■ 箭弓稲荷神社 (やきゅういなりじんじゃ)
[所在地]埼玉県東松山市箭弓町2-5-14
[主祭神]保食命
・球児たちに人気の埼玉県を代表する稲荷神社!
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■ 王子稲荷神社(おうじいなりじんじゃ)
[所在地]東京都北区岸町1-12-26
[主祭神]宇迦之御魂神
・関八州の狐が集まると伝えられる稲荷神社。狐の行列でも有名!
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■ 鼻顔稲荷神社(はなづらいなりじんじゃ)
[所在地]長野県佐久市岩村田4261
[主祭神]宇迦之御魂神
・一部には「日本五大稲荷」のひとつとも言われる。!
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■ 門田稲荷神社(かどたいなりじんじゃ)
[所在地]栃木県足利市八幡町387-7
[主祭神]宇迦之御魂神
・三大縁切り稲荷の一つにも数えられる神社。!
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