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TOP>>神社のススメ>>神仏習合について
「神道」はかつて、様々な宗教と習合しながら進化し続けてきました。熊野信仰や祇園信仰などはとても有名ですが、そこは「仏教」のみならず、「陰陽道」、「道教」といったあらゆる宗教も及び、中には「ヒンズー教」や「ゾロアスター教」などの影響を指摘する声もあります。

中でも、「仏教」との結び付きは深く、当時は互いの存在をそれぞれの解釈のもとで、「神」と「仏」を同一視し合う時代が続きました。それがいわゆる「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」または「神仏混交(しんぶつこんこう)」と呼ばれるもので、そんな神仏一体の考えが、結果的に両者の文化的資質を高めていきました。もちろん、その直接的な契機は、天皇が「仏教」を容認したことにありますが、そこに至るには様々な条件や要因が重なった結果と考えられております。
[要因1]神道の性質上の問題
「そもそも、「神道」は何故他の宗教と習合できたのでしょうか?」普通に考えればどちらか一方が残るということも充分あり得ると思いますが、この点は、一つ、「神道」の宗教としての「異端性」が上げられます。その「異端性」とは、一部、「神道について」」でも取り上げておりますが、「神道」はいわゆる一般的な「宗教」という概念からはかなり逸脱しているのです。

例えば、「神道」には、「宗教」における基本原理とも言うべき、「教え(教義)」がありません。これはまさしく、「文字のない時代に生まれた文化だから」という言い方も出来るかと思いますが、どちらかと言えば、儀礼的な特徴を多く含み、学術的な主張はほとんど認められません。このため、当時の日本からしてみれば、文明的にも非常に洗練された「仏教」の存在は非常に学術的なものであり、両者の存在は対立するよりもむしろ融和に至ることの方が自然だったと言えます。

事実、「神道」が現在の「神社」のように社殿を持つようになったのも、仏教建築の影響と言われています。それ以前は、いわゆる「古神道」と呼ばれる時代で、祭祀は現在の地鎮祭のように仮設のもとに執り行われてきました。このため、神社を代表する建築様式、「神明式」は、仏教建築に対する固有の建築ということで、高床式倉庫が採択された結果とも言われております。多分、仏教による影響がなかったら、現在、見られるような「神社」は存在していなかったかもしれません。
[要因2]葬式仏教の魅力
「神道」では、「死」を「ケガレ」として忌み嫌います。このため、往古においては、神葬祭(しんそうさい:神道式の葬儀)を行う際、村の長がその祭祀役を担うこともあったようです。しかし、その長の親族に死者が出ると、そうした考えから「ケガレ」ることになり、祭祀役から外さなければならなかったと言います。しかし、当時は、現代と違って死亡率が高い時代ですので、こうした状況では慢性的に祭祀役が不足します。

そんな事情の中で登場した「仏教」の「お坊さん」は、ある意味、死者を弔うことに優れており、不特定多数の葬儀を職業的に担うことが可能だった「お坊さん」の存在は神道の立場から言えば非常に好都合だったのかもしれません。これが、いわゆる「仏教」が「葬式仏教」と言われる所以です。そういう点からも「神道」と「仏教」は非常に相性がよかったと言えるでしょう。
[要因3]崇仏派と排仏派による政治闘争
もちろん、性質的な資質から両者の相性は良かったとは言え、そこに至るには当然の意志の働きというものが働きます。そこで鍵になるのが当時の政治的背景です。実は、「宗教」と「政治」の結びつきは非常に強いということが言えます。何故なら、民意とは、ある意味「民心の掌握」にあるとすれば、「民心」を捉える「宗教」の存在は利用価値としても非常に優れているからです。実際、「政治」の「政」という字は、「まつりごと」とも読み、事実、昔は政教一致の考えがありました。このため、仏教の登場は、日本の権力闘争にも大いなる影響を与えております。

そもそも「仏教の伝来」は、宣化天皇3年(538年)に、百済第26代聖明王(せいめいおう)が、金銅の釈迦如来像・経典・仏具を送ってきたことに始まると伝えられます(年代には諸説あります)。この結果、当時の実力者たちは、仏教を容認する派閥と否定する派閥に大きく分かれました。それが、前者の崇仏派と後者の排仏派と呼ばれる人たちです。中でも、崇仏派の蘇我(そが)氏排仏派の物部(もののべ)氏はその代表的勢力として知られ、この両勢力の争いはまさに仏教伝来における直接的な要因となります。
蘇我氏は、渡来系の技術力を持って台頭してきた背景から、渡来人の可能性が指摘されており、外来宗教である「仏教」をアジア全体主義の観点から容認の意向を唱えていました。対して、物部氏を始めとした諸氏は、いわゆる天孫族の末裔であり、中でも物部氏は、石上神宮の祭司を担ってきた一族で、当時の大和政権の武器庫の管理を司っていたとも伝えられます。ともかく、そうした背景からも国家神道を中心に考え、「仏教」に反対したと言われております。ただし、近年の研究では、物部氏の拠点である河内に、巨大な寺院を建立したとも伝えられていることから、単なる排仏派ではなかったとの指摘も出ており、その真意は今ひとつ分かりませんが、結果的に両者の対立が、仏教の容認を巡って激化の一途を辿っていきました。
そんな両派の対立は大きく3度にわたって行われ、最初の対立はこの伝来した仏像を蘇我稲目(そがのいなめ)が譲り受け、拝み始めることに始まります。しかし、その後、疫病が蔓延したため、物部尾興(もののべおこし)中臣鎌子(なかとみのかまこ)を始めとした排仏派はこれを国神の怒りによるものとして糾弾しました。そのため、寺院は焼き払われ、最初の伝来は失敗に終わることになります。

そして、2度目の対立は蘇我稲目の子、蘇我馬子(そがのうまこ)が天皇に仏教の崇拝のご裁可を再び進言したことに始まります。しかし、これもなかなかうまく行かなかったものの、ひとまず、馬子にのみ託される形で継続することは許されました。しかし、敏達天皇と馬子の姉となる蘇我堅塩媛 (そがのきたしひめ)との間に生まれた御子が第31代用明天皇として即位すると状況は徐々に崇仏派に対して有利に動き始めます。

物部尾興
そして、用明天皇2年(587年)、用明天皇のご逝去に伴い、その皇位継承問題によって蘇我氏と物部氏の対立はいよいよ決定的なものとなり、物部尾興の子、物部守屋(もののべもりや)蘇我馬子(そがのうまこ)によって討ち取られてしまいます。そして、この間に登場した厩戸王(うまやどおう)こと、聖徳太子(しょうとくたいし)が、この勝利の約束として、四天王寺(大阪府)を始めとした七大寺の建立に着手し、推古天皇12年(604年)に十七条憲法が制定されると、朝廷によって「仏教」が保護されるようになっていきました。

対して、敗れた物部氏は石神神宮の祭司の役割を離れ、一族・石神神宮、共に衰退の道を歩みました。ただし、仏教の受け入れにおいて物部氏と同じく対立していた中臣氏は、その後、大化の改新で馬子の孫、蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、藤原家として強大な実権を握っていきました。だからと言って、その後、藤原家が排仏的な動きを見せたかというとそうでもないため、この「仏教」の是非は、あくまで、政争の具として利用された結果なのかもしれません。
[要因4]医療技術を持ち合わせていた仏教
この他にも、当時の「仏教」は古代日本にとって非常に魅力的な要素が数多くありました。例えば、「仏教」には「五明(ごみょう)」と呼ばれる5つの専門領域がこれにあたり、これは、

1.声明(しょうみょう)=文学
2.因明(いんみょう)=論理
3.内明(ないみょう)=教理
4.工巧明(くぎょうみょう)=工学・数学・暦
5.医方明(いほうみょう)=医学・薬学
と呼ばれるもので、中でも最先端医療行為にあたる「医方明」は非常に魅力的な要素でした。実際にここでは漢方薬などを使った投薬治療も行われており、呪術と併用することで、「病気平癒」としてのご神威の高さを、単なる祈祷行為以上に印象づけることに成功していたと言えるでしょう。

事実、8世紀の中頃には、看病禅師(かんびょうぜんじ)と呼ばれる医療知識も兼ね備えた僧侶が活躍しており、「仏教」の力を見せるには大いに役立ちました。

法王にまで上り詰めた法相宗の僧、道鏡(どうきょう)にしても、看病禅師として活躍し、孝謙上皇の看病を行い、呪法を用いて平癒させることで上皇からの信任を得たと言われております。この点の優位性は非常に大きかった要素と言えるでしょう。

道鏡
[要因5]スーパースターの存在
さて、学術的に優れた「仏教」の存在はあらゆる面で影響を強めていった訳ですが、やはり、「仏教」の最大の利点は、いわゆる天才とも言えるスーパースターを輩出しやすい点あったかもしれません。最初は、高句麗から渡来した慧慈(えじ)に始まり、その後も同じく高句麗より渡来した曇徴(どんちょう)、百済より渡来した曇慧(どんえ)慧聡(えそう)観勒(かんろく)といった高僧が続々渡来してきました。

空海
そして、中国僧、鑑真(がんじん)の来日により日本の仏教は一定の確立を迎え、その後は、日本側からも最澄(さいちょう)空海(くうかい)といった二人の天才を輩出し、法然(ほうねん)親鸞(しんらん)日蓮(にちれん)一遍(いっぺん)栄西(えいさい)道元(どうげん)といった高僧が次々と自らの宗派を立て、幅広く発展していきました。

ここで、お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、「仏教」では、こうした有名僧がスーパースターの如く、次々と現れます。対して、「神道」では、代表的な神主を挙げてみて下さいと言われてみても非常に難しく、これも「教え」や「教義」といったものが学術的に存在しているからこそ生じる差なのかもしれません。
[習合1]密教勢力による神仏習合化
このように「仏教」は様々な条件や背景を通じて国内に受け入れられていきました。そして、徐々に「神道」は「仏教」の解釈の中から語られ始め、「天台宗」や「真言宗」を始めとする密教勢力と習合の道を歩んでいきます。中でも、「仏」と「神」の関係を唱えた「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」はその代表的な考えで、「本地」は『本来の姿=仏』、「垂迹」は「仮の姿=神道の神々」を表し、「日本の神々は、仏が現世に現れるための仮の姿とし、死後、神となって、救済の執行を代理する存在である」とした考えになります。

これは別の言い方をすれば、インドの神々が日本に現れる様を間接的に、日本の風土に帰化させたものであり、序列として、神は仏の継ぐ存在とみなされました(神は仏になる過程で苦しむ者のひとつ)。このため、「神道」側からも「仏教」を解釈する動きが見られ、この「本地」と「垂迹」の立場を逆と提唱したものに、「神本仏迹説(しんぽんぶっしゃくせつ)」というものがあります。
■代表的な組み合わせ
神道の神々及び信仰本地仏・習合先
天照大御神(あまてらす)十一面観音菩薩/大日如来(だいにちにょらい)
大国主大神(おおくにぬし)大黒天(だいこくてん)
市杵島姫(いちきしまひめ)弁財天(べんざいてん)
祇園信仰(ぎおんしんこう):
素戔嗚尊(すさのお)→牛頭天王(ごずてんのう)→薬師如来(やくしにょらい)
八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ):
応神天皇(おうじんてんのう)→阿弥陀如来(あみだにょらい)
愛宕権現(あたごごんげん):
伊弉冉尊(いざなみ)+火之迦具土神(かぐつち)→勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)
浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ):
木花開耶姫命(このはなさくやびめ)→大日如来(だいにちにょらい)
白山三所権現(はくさんしょごんげん):
白山妙理権現=伊弉冉尊(いざなみ)
大行事権現=菊理媛神(くくりひめ)
大汝権現=大己貴命
→十一面観音菩薩(じゅういちめんかんのんぼさつ)
→聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)
→阿弥陀如来(あみだにょらい)
熊野三所権現(くまのさんしょごんげん):
伊弉冉尊(いざなみ)他2柱
伊弉諾神(いざなぎ)他2柱
国常立命(くにのとこたち)他1柱
→千手観音(せんじゅかんのん)
→薬師如来(やくしにょらい)
→阿弥陀如来(あみだにょらい)
[習合2]修験道の登場
このように神仏習合が進むと、それを押し進めるように新たな勢力が登場します。それが、古神道の代表的存在である山岳信仰と「仏教」が習合化した日本独自の混交宗教、「修験道(しゅげんどう)です。修験道では、山伏(やまぶし)、または修験者(しゅげんじゃ)と呼ばれる行者たちが、日本各地の山々で厳しい修行を行い、験力(げんりき)と呼ばれる不思議な呪術を用いるとされてきました。

熊野詣でが盛んになったのも、ひとつにこうした修験者の活躍があり、熊野神社が全国に勧請されていったのも、こうした修験者の手によるものでした。そして、彼らは布教活動をしながら各地を転々とし、村に貴重な情報(医療行為/読み書き教育/政局)をもたらし、結果、農村各地まで、神仏習合観は広まっていきました(江戸時代には、修験道法度が定められ、真言宗系の当山派か、天台宗系の本山派への所属が義務づけられました)。
■修験霊場と主な神社
主な霊場信仰神社
熊野三山(和歌山県):熊野修験→[本社]熊野本宮大社熊野速玉大社熊野那智大社→熊野神社
富士山(静岡県・山梨県):村山修験→[本社]富士山本宮浅間大社→浅間神社
出羽三山(山形県):羽黒修験→[本社]月山神社出羽三山神社湯殿山神社→出羽神社
鳥海山(山形県):鳥海修験→[本社]鳥海山大物忌神社→大物忌神社
白山(石川県)→[本社]白山比め神社→白山神社
石動山(石川県・富山県):石動修験→[本社]伊須流岐比古神社→石動神社(いするぎじんじゃ)
立山(富山県)→[本社]雄山神社
日光山(栃木県):日光修験日光二荒山神社
筑波山(茨城県):関東三大修験道名山→[本社]筑波山神社
榛名山(群馬県):関東三大修験道名山→[本社]榛名神社
三峰山(埼玉県)→[本社]三峯神社
御岳山(東京都)武蔵御嶽神社
箱根山(神奈川県)→[本社]箱根神社
大山(神奈川県)→[本社]大山阿夫利神社→ 阿夫利神社
伊豆山(静岡県)→[本社] 伊豆山神社
秋葉山(静岡県)→[本社]秋葉山本宮秋葉神社→ 秋葉神社
戸隠山(長野県)→[本社]戸隠神社
御嶽山(岐阜県・長野県)→[本社]御嶽神社(おんたけじんじゃ)
息吹山(滋賀県):息吹修験→息吹神社
愛宕山(京都府)→[本社]愛宕神社(おんたけじんじゃ)
金峯山(奈良県):金峯山修験本宗 →[本社]吉野金峰山寺蔵王権現堂 →御嶽神社(みたけじんじゃ)
玉置山(奈良県) →玉置神社
諭鶴羽山(兵庫県)諭鶴羽神社
石鎚山(愛媛県)石鎚神社
剣山(徳島県)→剣神社・大剣神社
英彦山(福岡県):英彦山修験→英彦山神宮
阿蘇山(熊本県)→[本社]阿蘇神社
[習合3]神社管理の新しい形
このように「神道」と「仏教」は互いに認め合いながらも、その関わり方は徐々に変化を見せ始めます。今も神社にある案内板に目を通すと、「●●寺が別当寺を務めた」という表現を見かけることがありますが、それもその当時の模様を伝えた一文になります。「別当(べっとう)」とは、本来、「兼務する」という意味で、一部の神社では、寺院の管理下におかれるものもありました。そんな神社を管理するために置かれた寺院のことを別当寺(べっとうじ)、または宮寺(みやでら)神宮寺(じんぐうじ)などと言い、この案内板が意味するのは、「当時、その寺院がこの神社を管理していました」ということになります。

これは、本地垂迹説にもとづき施行されているため、別当寺の方が優位な立場にあり、別当寺では、神社の祭祀を仏式で執り行い、神前読経が上げられており、それを取り仕切っている社僧の代表を「別当」と呼んだことから、そうした寺院を「別当寺」と言いました。この「別当」は「宮司」よりも立場的に上位にあるとされました。

また、別当寺では、「権現(ごんげん)」を用いて、神仏の両方に対して拝むことを可能にしていました。これは「神道」が偶像を用いない、非常に空想的・感覚的な信仰であったため、別当寺が「権現」、つまり、神が仏になるために現れた仮の姿としてそれら偶像を本地仏として崇めることは役割としても非常に明確であったということでしょう。ちなみに、この「権現」は「権」が「仮の」を意味し、「現」が「現れる」ことを意味します。つまり、一つの崇拝で「神」と「仏」の両方を拝むことの出来た別当寺は当時としては非常に効率的な存在だったのかもしれません。
仏教の時代から現在まで
このように様々な背景や要因を受け、「仏教」は「神道」とうまく習合しながら不動の地位を獲得していきました。寛文4年(1664年)には、江戸幕府が寺請制度(檀家制度)を施行し、「民衆は必ずどこかの檀家に属さなければならない」という政策を採り、その地位を盤石なものにしていきます。これはある意味、現代の戸籍制度に代わるもので、『民衆は必ずどこかの寺院の檀信徒であることの証明を受けなければならず、証明がなければ、旅行にも行けませんでした。』このため、各家庭には仏壇が置かれるようになり、法要は僧侶が取り仕切るという現代でも残っている慣習がこの時代に定着化しました。

しかし、これも明治時代に入ると、この「神仏習合」の形は突如としてその終焉を迎えます。それが、神仏分離令です。これも偶発的に起こったものではなく、長年、手厚く保護されてきた僧侶が、一部、仏教の体たらくを招き、民衆の不満に結びついたことと、明治維新が国学を推進する立場から、国家神道として、天皇を軸とした古代神道への回帰を促す必要があったという背景があります。このため、習合化を果たしていた寺社仏閣は、その後の存続を神社としてか、若しくは、寺院としてか、その帰属の選択を迫られました。

結果、神社としての存続を選択した寺社では、当時、数多くの仏像が廃棄されました(しかも、一部、過剰に反応した民衆から廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の動き見せ、攻撃される憂き目にまで発展しましたところもあります)。このため、神仏の区別は徹底的に行われ、現在、仏像が境内に安置されるような神社はほとんど見られなくなりました(ご神体をこの時の本尊としている神社はまだあります)。ただ、姿形は、変われども、一旦染み付いた風習を分離することはなかなかかないません。そうした名残が、今でも「厄払いが神社、寺のどちらでも行われる」といった習慣に表れているのです。

(寺から神社への転向例)
(例1)象頭山松尾寺金光院(香川県)→金刀比羅宮
(例2)白山寺白山本宮(石川県)→白山比め神社
(例3)秋葉寺(静岡県)→秋葉山本宮秋葉神社
(例4)感神院祇園社(京都府)→八坂神社
(例5)牛頭天王社(広島県)→素盞嗚神社
(例6)妙楽寺(奈良県)→談山神社
(例7)大山寺(鳥取県)→大神山神社
(例8)金亀山与願寺(神奈川県)→江島神社 など。
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